2012年02月03日

他人の携帯を盗み見るのは、アリかナシか

他人の携帯メールを盗み見るのは、もちろんご法度である。

「恋人がどうも浮気をしているようだ。真相を突き止めたい」
――では、その後が問題である。他人の本性を知って、いったいどうしようというのか。
恋人の携帯を盗み見るなら、「浮気の証拠を突きつけて、きっぱり別れる」というほどの覚悟が必要である。縁を切るための最後の手段としてなら、かろうじてアリかもしれない。
だが、ただの好奇心で何となく見てしまって、「どうしよう、ショッキングなメールを見つけてしまった。問いつめたいが、勝手に見たのも悪いし……」と悩むくらいなら、見ないほうがよい。

メールは、第三者に見られないという前提でやりとりしている秘密の通信である。
それを盗み見るのは、明らかにプライバシーの侵害であり、他人の家に隠しカメラや盗聴器を仕掛けるのと同じくらいに悪質な行為である。そうした仕掛けを必要としないので罪悪感が薄いぶん、かえって始末が悪い。

他人の携帯を盗み見ておいて、「疑わしい行動をとったあなたが悪い」と言っても、「そっちこそ信用できない」と言われればおしまいである。
どうしても他人の携帯を見なければ気がすまないのなら、相手の不義を暴くかわりに自分も信用を失って絶縁される、「毒をもって毒を制す」の相討ちを覚悟しなければならない。

携帯電話の中には、たしかにその人の本心が隠れているかもしれない。
だが、そんな手段で他人の本心を知って、いったい何になるだろう。それは試験でカンニングをするのと同じことである。
試験で毎回不正をして高得点をとっても、いっこうに実力はつかない。カンニングをする人は、「よい成績をとる」ということが目的化してしまっていて、「何のために勉強するのか」という本来の大事な目的を忘れてしまっているのである。

恋人や友人がどういう人か、何を考えているのかということは、顔と顔を向き合わせて付き合っていく中で判断し、理解していくものである。相手の表情、ものの言い方、仕草、声の調子などを全身でくみ取るものだ。それが本気で人と付き合うということである。
他人の携帯を盗み見る癖のある人は、人付き合いの目的を間違っている。他人を「自分にとって利用価値があるかどうか」という目でしか見ていないのである。
人と付き合うことの目的は、本心を暴くことではない。
「裏切られて損をしたくない」というのなら、とるべき唯一の方法は、はじめから誰とも付き合わないことである。

そもそも、他人の本心などというものは、分からないものである。自分で想像するしかない。そして、この「想像する」ということ、自分で考えるということが重要なのである。
「私はあなたのことをこんなにいつも考えて、気にかけていますよ」という態度を示すことが愛情表現であり、思いやりである。
「自分が損をしないために」ではなく、「相手の立場になって考え、よろこびも悲しみも分かち合うために」である。

それでも、他人の本心というのは、分からない。
この世に裏表のない人間がいるだろうか。
自分の心の中が丸見えになってしまう機械があったら、息がつまって誰とも付き合えなくなるだろう。分からないからやっていけるのである。
理解し合う努力は必要だが、親友や夫婦といえども、本心は一生分からない。それを当たり前のこととして、互いに尊重し合い、気遣い合いながらやっていくしかない。
ときには幻滅したり傷つけられたりしながら、人を見る目が養われていくのである。

(文・たかたまさひろ)
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2012年01月29日

自分はたいした人間ではない

「どうせ自分は誰からも必要とされていない。自分は何の価値もない人間だ」と絶望してしまう人は、自分に自信がないというよりも、むしろ自信過剰の傾向が強すぎるといえる。
「自分はたいして人さまの役には立っていない」と慎ましくへりくだるのは、悪いことではない。
間違っているのは、「だから、自分には価値がない」と短絡に結論づけてしまうことだ。

人は誰も、そんなに偉くはない。
「私は世のため人のために貢献してきた、立派な人間だ」とうぬぼれている人は、はたから見れば痛々しいほどに滑稽なだけだ。
もちろん、人に必要とされる人間になりたいという目標をもつのはよいことである。
と同時に、「自分はたいした人間ではない」と冷静に省みることも大切だ。

高い理想に向かって努力しながらも、まだまだ自分は理想に到達していないという謙虚さをもって生きていけばいいのである。
「私は他人から感謝され、敬われるべき人間だ」という思い上がった考えがそもそも間違っているのだ。
自分は人の役に立っていない。いいじゃないか。自分は人から尊敬されていない。いいじゃないか。胸の底に潜んでいる高慢さを抑えるために、あえてそう自分に言い聞かせるぐらいでちょうどよいのだ。

何に向かって努力しているかということが、その人の人格を決める重要な要素となる。
どういう理想をかかげ、それを実現するためにどう行動しているかということに意味があるのだ。
理想を実現できなくてもいい。いや、実現できたなどと思い上がらないほうがいい。
目標に向かって走り続けている姿こそがすばらしいのである。そんな自分に誇りをもてばいい。

(文・たかたまさひろ)
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2012年01月24日

被害を最小限にとどめる

他人に傷つけられたとき、怒りや憎しみを抱いてしまっては、自分を二重に苦しめることになる。

人は弱さや愚かさから、またときには意図せずに、他人を傷つけてしまうものだ。
社会で生きていく上では、他人から傷つけられることは避けられない。
それは、石につまずいて転ぶのと同じく、単なる不運にすぎないのだ。

不運な目にあったとき、どうすればよいか。
「ああ、運が悪かったな」と苦笑して、さっさと忘れてしまうにかぎる。それが、被害を最小限に食いとどめる方法だ。
電柱に頭をぶつけたからといって、腹いせに電柱を殴りつけて拳まで痛めてしまうのは、愚行と言わざるをえない。

他人に対して怒りや憎しみを感じたときは、こう自分に言い聞かせよう。
「不運にも傷つけられてしまったが、まだ被害は最小限の段階である。私にできることは、これ以上被害を拡げないことだ。いま、私が理知的な人間であるかが問われている」と。

人を恨んで、事態が好転することはけっしてない。ますます悪化するだけだ。
「他人に傷つけられた」という事実は、もはや取り消せない。
最善の策は、被害をそれだけに抑えることである。
相手を恨んで、自分の心まで汚すべきではない。

(文・たかたまさひろ)
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