2012年05月10日

傷つけられても

平気で無神経なことを言う人。
自己の利益のために他人を利用する人。
他人を見くだすような態度をとる人。

どこにでも、憎たらしい人というのはいるものである。
そういう人に傷つけられたからといって、「仕返しをして、思い知らせてやりたい」などとは考えないほうがよい。

他人に嫌われる性格の人は、「嫌われている」ということ自体が大きな不幸である。
他人の痛みが分からない人は、「他人の痛みが分からない」ということ自体が大きな不幸である。

「自分を傷つけた相手に思い知らせてやらなければ気がすまない」と考えるのは、「相手のほうが得をしている」と思い込んでいるからである。
平気で他人を傷つける人も心が貧しいが、「傷つけたほうが得をしている」と考えるのもあまりにも浅はかだ。

相手は十分不幸なのだから、これ以上思い知らせてやる必要はない。
自分で自分の顔を殴っている人を見て、さらに殴ってやりたいとは思わないはずである。

下手に仕返しをして、逆恨みをされてはかなわない。
自分自身を苦しめている人は、その愚かさに気づくまで、ほうっておいてやればいいのだ。

(文・たかたまさひろ)
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2012年05月04日

何を隠そうとしているのか

他人に対する怒りとは、ほとんどの場合、「自分が認めたくない感情」を隠そうとする働きである。
恥。嫉妬。罪悪感。敗北感。自己嫌悪。
自分を好きな人、自分の人生を楽しんでいる人は、他人の言動にいちいち目くじらを立てたりしない。

怒りを感じたときは、自分に正直にこう問いかけてみよう。
「私は、いったい何を隠そうとしているのか」
自分では弱みを隠しているつもりでも、他人にはきっと見破られているに違いない。他人をあまり見くびらないほうがよい。

自分の中のみにくい感情に対する扱い方は、二通りしかない。
「はっきりと認めて、向き合う」か、「ごまかそうとして、陰で笑い者にされる」かのどちらかだ。隠し通すことなどできない。

自分の弱さを認めることは、恥ずかしいことではない。弱さを認めまいとして強がることのほうが、何倍も恥ずかしいことだ。

(文・たかたまさひろ)
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2012年04月19日

好きと嫌いは紙一重

「かわいさ余って憎さ百倍」というとおり、人を好きになると、嫌いになったときの反動も大きい。
たいして関心のない人にすげない態度をとられても「おかしな人だな」と思うくらいだが、好意をもっている相手に冷たくされると、逆に怒りや憎しみを感じてしまうことがある。

人を愛するということは、憎しみという感情が生じる危うさもあわせもつことである。
いや、人を愛したときには、同時に憎んでもいるのだ。
相手を独占したい。自分も愛してもらいたい。裏切ったら許さない。愛情の裏には、つねに憎しみが見え隠れしている。
自分の心に憎しみが宿っていることを認め、それが悪い形で現れないようにすることが、うまく人を愛するコツである。

「私は、心に一点の曇りもなく、純粋に人を愛している」と思い込んでいる人は、要注意である。
その恋愛がうまくいかなかったとき、自分の心に憎しみというみにくい感情が芽生えていることを認めたくないばかりに、徹底的に相手を悪者にすることによって自分の内面から目を背け、かえって憎しみに歯止めがきかなくなってしまうのだ。

愛憎は紙一重、つねに表裏一体である。
憎しみを必要以上に恐れたり恥じたりすることはない。
「好きだからこそ憎たらしい」というのは、ごく自然な感情である。
憎しみを伴わない愛情は本物の愛情ではない、と考えるくらいでよいのだ。

また、自分を愛してくれる相手にも、憎しみという感情があるということを認めなくてはならない。
愛されるということは、相手の憎しみも引き受けるということだ。
「嫌われたらどうしよう」という心配は無用である。愛されると同時に、すでに嫌われているのだから。
100パーセント好きということもないし、100パーセント嫌いということもない。「昨日は好きだったが、今日は嫌い。明日はまた好きになる」というふうに、つねに揺れ動いているのだ。
嫌われたらすべておしまい、と考えてはいけない。感情の振り子をもとに戻す努力をすればよいのである。

(文・たかたまさひろ)
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