分類 / 不安
2012年04月19日

好きと嫌いは紙一重

「かわいさ余って憎さ百倍」というとおり、人を好きになると、嫌いになったときの反動も大きい。
たいして関心のない人にすげない態度をとられても「おかしな人だな」と思うくらいだが、好意をもっている相手に冷たくされると、逆に怒りや憎しみを感じてしまうことがある。

人を愛するということは、憎しみという感情が生じる危うさもあわせもつことである。
いや、人を愛したときには、同時に憎んでもいるのだ。
相手を独占したい。自分も愛してもらいたい。裏切ったら許さない。愛情の裏には、つねに憎しみが見え隠れしている。
自分の心に憎しみが宿っていることを認め、それが悪い形で現れないようにすることが、うまく人を愛するコツである。

「私は、心に一点の曇りもなく、純粋に人を愛している」と思い込んでいる人は、要注意である。
その恋愛がうまくいかなかったとき、自分の心に憎しみというみにくい感情が芽生えていることを認めたくないばかりに、徹底的に相手を悪者にすることによって自分の内面から目を背け、かえって憎しみに歯止めがきかなくなってしまうのだ。

愛憎は紙一重、つねに表裏一体である。
憎しみを必要以上に恐れたり恥じたりすることはない。
「好きだからこそ憎たらしい」というのは、ごく自然な感情である。
憎しみを伴わない愛情は本物の愛情ではない、と考えるくらいでよいのだ。

また、自分を愛してくれる相手にも、憎しみという感情があるということを認めなくてはならない。
愛されるということは、相手の憎しみも引き受けるということだ。
「嫌われたらどうしよう」という心配は無用である。愛されると同時に、すでに嫌われているのだから。
100パーセント好きということもないし、100パーセント嫌いということもない。「昨日は好きだったが、今日は嫌い。明日はまた好きになる」というふうに、つねに揺れ動いているのだ。
嫌われたらすべておしまい、と考えてはいけない。感情の振り子をもとに戻す努力をすればよいのである。

(文・たかたまさひろ)
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2012年02月06日

愛情のとらえ方の違い

他人に対する気遣いには、大きく分けて旅館型とホテル型の二通りがある。
旅館では、「お食事はお風呂の後になさいますか」「お布団をお敷きしましょうか」などといろいろ声をかけてくれる。
いっぽうホテルでは、こちらから声をかけないかぎりほうっておいてくれるが、何か頼みごとをしたときには、丁寧に応対してくれる。

旅館のように世話を焼いてくれるほうが居心地がいいという人もいるが、逆にわずらわしいという人もいる。
ホテルのようによけいな干渉をされないほうがくつろげるという人もいるが、逆に物足りなくて寂しいという人もいる。
旅館もホテルも、客をもてなす心は同じだが、その表し方が違うだけである。

家族や恋人に対して、「私は愛されていない」と感じるのは、愛情の表現の仕方の違いによるものが多いようだ。
一日に何度もメールや電話で連絡を取り合うのが好きな人もいれば、それを「行動を監視されているようで嫌だ」という人もいる。
すべてを包み隠さず打ち明け、話し合いたいという人もいれば、どんなに親しい間柄でも踏み込んではいけない領域があると考えている人もいる。
交わす言葉の多さが愛情の証しか、それとも、何も言わなくても信じ合えるのが愛情の深さか。
どちらが正しいわけではなく、単に好みの問題だ。

「愛されていない」わけではなく、自分は旅館型の愛情を求め、相手はホテル型の愛情を示しているにすぎないのかもしれない。
自分が「愛されていない」と感じるのは仕方がないにしても、だからといって相手を冷たい人だと決めつけて非難してはいけない。
自分が勝手に定めた「愛の定義」に他人を当てはめて評価してはいけないのだ。

愛情をどう表現するかは、人それぞれだ。相手には相手の表現の仕方がある。
愛される人とは、他人の愛情をうまくくみ取れる人のことをいうのだろう。

(文・たかたまさひろ)
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2012年02月03日

他人の携帯を盗み見るのは、アリかナシか

他人の携帯メールを盗み見るのは、もちろんご法度である。

「恋人がどうも浮気をしているようだ。真相を突き止めたい」
――では、その後が問題である。他人の本性を知って、いったいどうしようというのか。
恋人の携帯を盗み見るなら、「浮気の証拠を突きつけて、きっぱり別れる」というほどの覚悟が必要である。縁を切るための最後の手段としてなら、かろうじてアリかもしれない。
だが、ただの好奇心で何となく見てしまって、「どうしよう、ショッキングなメールを見つけてしまった。問いつめたいが、勝手に見たのも悪いし……」と悩むくらいなら、見ないほうがよい。

メールは、第三者に見られないという前提でやりとりしている秘密の通信である。
それを盗み見るのは、明らかにプライバシーの侵害であり、他人の家に隠しカメラや盗聴器を仕掛けるのと同じくらいに悪質な行為である。そうした仕掛けを必要としないので罪悪感が薄いぶん、かえって始末が悪い。

他人の携帯を盗み見ておいて、「疑わしい行動をとったあなたが悪い」と言っても、「そっちこそ信用できない」と言われればおしまいである。
どうしても他人の携帯を見なければ気がすまないのなら、相手の不義を暴くかわりに自分も信用を失って絶縁される、「毒をもって毒を制す」の相討ちを覚悟しなければならない。

携帯電話の中には、たしかにその人の本心が隠れているかもしれない。
だが、そんな手段で他人の本心を知って、いったい何になるだろう。それは試験でカンニングをするのと同じことである。
試験で毎回不正をして高得点をとっても、いっこうに実力はつかない。カンニングをする人は、「よい成績をとる」ということが目的化してしまっていて、「何のために勉強するのか」という本来の大事な目的を忘れてしまっているのである。

恋人や友人がどういう人か、何を考えているのかということは、顔と顔を向き合わせて付き合っていく中で判断し、理解していくものである。相手の表情、ものの言い方、仕草、声の調子などを全身でくみ取るものだ。それが本気で人と付き合うということである。
他人の携帯を盗み見る癖のある人は、人付き合いの目的を間違っている。他人を「自分にとって利用価値があるかどうか」という目でしか見ていないのである。
人と付き合うことの目的は、本心を暴くことではない。
「裏切られて損をしたくない」というのなら、とるべき唯一の方法は、はじめから誰とも付き合わないことである。

そもそも、他人の本心などというものは、分からないものである。自分で想像するしかない。そして、この「想像する」ということ、自分で考えるということが重要なのである。
「私はあなたのことをこんなにいつも考えて、気にかけていますよ」という態度を示すことが愛情表現であり、思いやりである。
「自分が損をしないために」ではなく、「相手の立場になって考え、よろこびも悲しみも分かち合うために」である。

それでも、他人の本心というのは、分からない。
この世に裏表のない人間がいるだろうか。
自分の心の中が丸見えになってしまう機械があったら、息がつまって誰とも付き合えなくなるだろう。分からないからやっていけるのである。
理解し合う努力は必要だが、親友や夫婦といえども、本心は一生分からない。それを当たり前のこととして、互いに尊重し合い、気遣い合いながらやっていくしかない。
ときには幻滅したり傷つけられたりしながら、人を見る目が養われていくのである。

(文・たかたまさひろ)
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