2012年06月18日

生きる意味などなくてもよい

生きることに絶望している人は、「人生に意味を見いだせない」から苦しいのではない。
「人生には意味が必要である」と思い込んでいるから苦しいのである。

人の役に立つ仕事をする。愛する人につくす。子供を立派に育てる……。「意味のある人生」は、たしかにすばらしい。その意味をたもち続けているかぎりにおいては。
だが、手に入れたものは、いつかは失うと心得なければならない。
いや、失うも何も、意味があると思っていたこと自体が幻想にすぎなかったと気づくこともあるのだ。

意味があれば幸せ、意味がなければ不幸せ。そのような二分法による「条件つきの幸せ」の裏には、「いつかこの幸せが壊れるかもしれない」という不安の影がつきまとう。それでは、いつまでたっても幸せにはなれない。
生きる意味が見いだせないときは、意味を見いだそうとあがき苦しむよりも、とことん突き抜けて、「意味などなくてもよい」と、無の中に身を投げ出してみることある。
「人生の意味」にしがみついて生きるのではなく、「意味のない人生をどう生きるか」を考えるべきなのである。

「人生に意味はない」という観念は、人を苦しめもするが、救いもするのである。
正しい生き方などない。立派に生きなくてもよい。(「私は正しい」「私は立派だ」と思っている奴にロクな奴はいないのだから)
成功も失敗も大差はない。何にでも挑戦して、失敗して、またやり直せばいい。

意味にしばられる人生もまた苦しみである。
人生に意味などなくてもよい。
「こうあるべきだ」という凝り固まった考えを一度リセットして、ゼロから再出発してみよう。失うものはないのだから、好きなように生きればいい。
そこから、「ともかく精一杯やってみよう」という新しい希望や意欲が生まれるのである。

(文・たかたまさひろ)
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