2010年07月04日

「嫌われているかも」という思い上がり

自分は嫌われているかもしれない。
そう気をもむのは、ある意味、思い上がりなんだ。

実は、嫌われるほど気にかけられていないかもしれない。
他人はいつも自分に注目し、自分の言動を細かく観察しているに違いない、といううぬぼれ。
他人はそんなに暇じゃないし、性悪でもないよ。

「どうせ私は嫌われている」と自分を卑下するとき、心のどこかに「なぜ私を認めてくれないんだ」と他人を責める気持ちがある。
「他人がもっと大らかな心で私を受け入れてくれたら、こんなに悩まなくてすむのに。なんて冷たい奴らなんだ」と。
自分の劣等感をごまかすために、他人を悪者にし、他人が変わることを求めている。
もし嫌われるとしたら、その身勝手さこそが嫌われるんだ。

不用意に他人を傷つけてしまったのなら、誠意をつくして謝らなければならない。
しかし、「嫌われたんじゃないか」ということまで気にしてはいけない。
「私を嫌わないで」というのは、相手への思いやりではなく、ただの自分かわいさ。
「自分がどれだけ自分が好きか」なんてことは、相手にとっては知ったこっちゃない。

人に気を遣いすぎて疲れるのは、「自分がどう思われているか」を気にかけているにすぎないから。
本当に相手のことを思っていれば、疲れることなんてない。
人に好かれることよりも大切なのは、人を尊重すること。
自分が相手を尊重しさえすれば、それでいい。

(文・たかたまさひろ)
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