2012年03月28日

人を裁くのは自分の仕事ではない

暴行、窃盗、詐欺などの被害にあったときは、警察に届ければよい。
それらの犯罪行為は「許されないこと」だから、法律で禁止されている。
逆にいえば、法律で禁止されていないことは、世の中の多くの人が「絶対に許せないとまではいえない」と考えている、ということだ。

他人に迷惑をかけられたり、傷つけられたりしたときは、まず冷静に、絶対に許せないことなのかどうかをよく考えてみよう。
絶対に許せないこと、つまりそれが法律に違反する行為なのであれば、法的手段に訴えるべきである。
後は警察が捜査するなり、裁判所が裁くなりしてくれる。

「絶対に許せないこと」ではないのなら、さっさと許してしまおう。腹を立てる時間と労力が無駄である。
ましてや、仕返しをしようなどとは考えないほうがよい。
法を犯した者は、司法が裁いてくれる。
法律に違反しないまでも悪いことをした人は、けっして自分を好きになれず、誇りももてず、むなしさの中で一生を送ることになるから、すでに自分自身によって裁かれているのである。

人が人を裁いてはいけない。裁く権利はない。
他人に腹が立ったときは、「人を裁くのは自分の仕事ではない」と自分の胸に言い聞かせよう。

他人を許さない人は、自分も他人から許してもらえない。
他人を裁こうとする人は、自分も他人に裁かれる。
人間は誰も完璧ではないのだから、自分もいつか過ちをおかすだろう。
自分のためにも、他人を許したほうがよいのである。
いや、許すも許さないも、「人を裁くのは自分の仕事ではない」のだ。

(文・たかたまさひろ)
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2012年03月23日

人生はゲームだ

「人生ゲーム」というロングセラーのボード・ゲームがあるが、そう、まさに人生そのものがゲームのようなものだ。
出世競争から落ちこぼれても、「出世ゲーム」に破れただけ。
失恋しても、ひとつの「恋愛ゲーム」が終了しただけ。
家族に恵まれなかったら、「家族ゲーム」で配られたカードがよくなかったというだけ。
他人から傷つけられたのは、「人間関係ゲーム」で相手が反則をしたから。
すべては、たかがゲームだ。

こんなことを言うと、生真面目な努力家からは「人生を甘く見るな」と叱られるかもしれない。
だが、「人生はゲームだ」というのは、けっして何ごともいい加減に遊び半分でやればよいという意味ではない。

ゲームは真剣にやらなければおもしろくない。真剣勝負のゲームである。
真剣だが、しょせんゲームである。
勝った人は得をした。それだけのこと。ゲームに負けたからといって、命までとられるわけではない。人生が終わったわけでもない。ましてや、自分の価値を否定する必要などさらさらない。

カード・ゲームに負けた人は、テクニックが未熟だったか、運がなかったから負けたのである。人間として劣っていたわけではない。
同じように、人生ゲームの勝ち負けも、人間の価値とはまったく関係がない。
たかがゲームじゃないか。本気で精一杯遊んで、勝った負けたと笑い合えば、それでいい。

人生はゲームだ。それはけっして、人生を軽んじているわけではなく、逆に、せっかく与えられた一度きりの人生を有意義に、積極的に楽しもうという前向きな考え方である。

(文・たかたまさひろ)
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2012年03月17日

余裕のあるほうが譲ればいい

混んでいる場所を急いで走っている人がいたら、道を譲ってやればいい。
その人は、何かせっぱつまった用があって、焦っているのだ。
余裕のある人が、余裕のない人に譲ってやればいい。

いつもいら立っている人。
人の悪口ばかり言っている人。
すぐに人に食ってかかる人。
彼らは、心に余裕がなく、つねに追いつめられているのだ。
急いでいる人に道を譲るように、心に余裕をもってやり過ごせばいい。
彼らとまともに取り合い、「どちらが余裕がないか」を競い合って何になるだろう。
余裕のあるほうが恵まれているのだから、余裕のないかわいそうな人たちをおおらかな目で見てやろう。

(文・たかたまさひろ)
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2012年03月12日

だが、不幸ではない

泣きたいときもある。
だが、不幸ではない。

腹の立つこともある。
だが、不幸ではない。

不安に襲われることもある。
だが、不幸ではない。

思いどおりにはいかないこともある。
だが、不幸ではない。

苦難や障害は、人生をドラマチックに彩る飾りつけだ。
現実が幸か不幸かを決めるのではない。
「私は不幸だ」と自分で決めたとき、不幸となるんだ。

(文・たかたまさひろ)
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2012年03月07日

まず自分の土台固めを

飛行中の航空機内で、何らかの異常により酸素が薄くなったときには、酸素マスクが自動的に降りてくる。
航空会社では、客が幼い子供を連れている場合、まず親が自分の酸素マスクを着用し、次に子供にも着用させるよう案内している。子供が先ではなく、親が先である。
ふつうの親心として、子供の安全を優先させたいと思うところだが、親が意識を失ってしまっては、幼い子供は自分で自分を守ることができない。子供が意識を失っても、親がしっかりしていれば、助けてやることができる。
子供を守るためにも、まず親自身の安全を確保するのが緊急時の鉄則なのだそうである。

いつも他人に気を使い、気を回しすぎて、へとへとに参ってしまっている人がいる。
「人の役に立ちたい」「困っている人を助けてあげたい」という思いは立派だが、自分に余裕がないのに、自分以上に他人を優先させる必要はない。
他人を助けるためには、まず自分の土台を安定させなければならない。
精神的、経済的、体力的に厳しい状態にあるときには、自分のことを第一に考えてもよいのである。

自分を優先させることは、けっしてわがままではない。
自分を大事にできない人が、他人を大事にできるわけがない。
無理に自分を犠牲にしてまで他人の役に立とうとするよりも、自分の安定を確保してから、余裕があれば他人を助けるようにしたほうが、より長く、より多くの人助けができるのである。
他人のためにも、まず自分を守ることを優先させてもよいのである。

(文・たかたまさひろ)
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2012年03月03日

見る目がないから

草書や抽象絵画などの書画は、初心者にはわけが分からず、どれも下手くそな落書きに見える。
高尚な文学も、意味を理解できない人にとっては、退屈なものでしかない。
価値のある骨董品も、素人にかかれば、ただのガラクタである。

しかし、ちゃんとした鑑識眼のある人には、よいもの、悪いものの見分けがついているのである。
よいものを見る目をもつには、自分がそのレベルまで達していなければならない。

人を見る目も同じだ。
他人の嫌なところばかりが目につくのは、自分のレベルが低いからである。

(文・たかたまさひろ)
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