2012年02月23日

「なぜ」は禁句

「なぜ言ってくれなかったの」
「どうしてそんなことするの」

なぜ、なぜ、なぜ。人と話をするとき、つい投げかけてしまいがちな言葉である。
だが、「なぜ」はいわば批判の枕詞である。できるだけ使わないほうがよい。

「なぜそんな言い方をするの」と言えば、相手からも言い返され、言い争いになることが多い。
簡潔に「そんな言い方をしないでほしい」とだけ言えばいいのである。
「なぜ私だけ誘ってくれなかったの」ではなく、「私も行きたかったな。次はぜひ誘ってね」。
「なぜ私の気持ちを分かってくれないの」ではなく、「私はこのように思っています」。
相手を責めるのではなく、自分がどうしたいのかを示せば十分である。

親が子供を「なぜ部屋の片付けをしないの」と叱る。
だが、子供は「なぜ」ときかれても答えようがない。ただ「面倒くさいから」という程度の理由でしかないのだが、それを言えばよけいに叱られるのは分かっているから、いきおい「うるせえな、出てってくれよ」と反抗するか、ふてくされて黙り込むしかない。

「なぜ」という質問の意図は、具体的な理由を知りたいわけではなく、つきつめれば、「なぜあなたは私の思い通りにならないのか」ということである。
他人を意のままに操ることは不可能だから、その問いの答えはけっして見つからない。
「なぜ」の質問責めは、相手をうんざりさせ、人間関係をよけいにこじらせるだけだ。
他人に何かをしてほしいと望むなら、「なぜそうしないのか」と相手に尋ねるのではなく、自分から「なぜそうしてほしいのか」を説明すべきである。

「なぜ」をやめれば、自分の気持ちがよく分かる。
自分の気持ちと向き合えれば、他人の気持ちも理解できるようになる。
「なぜ」を禁句にしよう。

(文・たかたまさひろ)
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2012年02月17日

他人を理想化してはいけない

他人の長所は認め、欠点には目をつぶる。これはよい心がけだ。
ただしそれは、他人を盲信し、神格化するということではない。
欠点のない人はいない。それを当たり前のこととして、他人の欠点を認識した上で、受け入れるということである。

他人を理想化してはいけない。
人を愛し、尊敬し、目標とするのはかまわないが、欠点のない完璧な人間だと思い込んではいけない。やはり人は神でも仏でもないのだから。

理想化とは、他人を自分の都合のよい存在として枠に押し込めようとすることである。
理想化は、必ず裏切られる。
他人はけっして自分の思い通りにはならないからである。
他人を勝手に理想化し、裏切られただの幻滅しただのと騒ぐのは、相手にとってはいい迷惑である。

思い通りにならなかったからといって他人を批判している自分は、果たして「理想的」な人間だといえるのか。
「理想化」は、自分についてだけ行えばよい。
理想を他人に押しつけてはいけない。自分で描いた理想像に近づけるよう、自分が努力すればよいのである。

(文・たかたまさひろ)
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2012年02月11日

欲望の着地点

愛情を求めてやまない人は、愛に飢えていることが問題なのではない。
どれだけ求めても満足できないことが問題なのである。
「これぐらいなら、まあ満足」という自分なりの着地点を定めていないから、ざるに水を注ぐように際限なく求めてしまうのである。

恋人も友人もお金も出世も、何かを求めるときは、しっかり水をためられる容器を自分の心に思い描かなくてはならない。
容器が水で満杯になったら、それで一応は満足する。水が少なくなったら、不足分だけを注ぎ足す。そう考えればいい。

心の容器の大きさを決めていなければ、いつまでたっても満たされるはずがない。
幸せを感じられないのは、ざるに水を注いでいるからである。

(文・たかたまさひろ)
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2012年02月06日

愛情のとらえ方の違い

他人に対する気遣いには、大きく分けて旅館型とホテル型の二通りがある。
旅館では、「お食事はお風呂の後になさいますか」「お布団をお敷きしましょうか」などといろいろ声をかけてくれる。
いっぽうホテルでは、こちらから声をかけないかぎりほうっておいてくれるが、何か頼みごとをしたときには、丁寧に応対してくれる。

旅館のように世話を焼いてくれるほうが居心地がいいという人もいるが、逆にわずらわしいという人もいる。
ホテルのようによけいな干渉をされないほうがくつろげるという人もいるが、逆に物足りなくて寂しいという人もいる。
旅館もホテルも、客をもてなす心は同じだが、その表し方が違うだけである。

家族や恋人に対して、「私は愛されていない」と感じるのは、愛情の表現の仕方の違いによるものが多いようだ。
一日に何度もメールや電話で連絡を取り合うのが好きな人もいれば、それを「行動を監視されているようで嫌だ」という人もいる。
すべてを包み隠さず打ち明け、話し合いたいという人もいれば、どんなに親しい間柄でも踏み込んではいけない領域があると考えている人もいる。
交わす言葉の多さが愛情の証しか、それとも、何も言わなくても信じ合えるのが愛情の深さか。
どちらが正しいわけではなく、単に好みの問題だ。

「愛されていない」わけではなく、自分は旅館型の愛情を求め、相手はホテル型の愛情を示しているにすぎないのかもしれない。
自分が「愛されていない」と感じるのは仕方がないにしても、だからといって相手を冷たい人だと決めつけて非難してはいけない。
自分が勝手に定めた「愛の定義」に他人を当てはめて評価してはいけないのだ。

愛情をどう表現するかは、人それぞれだ。相手には相手の表現の仕方がある。
愛される人とは、他人の愛情をうまくくみ取れる人のことをいうのだろう。

(文・たかたまさひろ)
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2012年02月03日

他人の携帯を盗み見るのは、アリかナシか

他人の携帯メールを盗み見るのは、もちろんご法度である。

「恋人がどうも浮気をしているようだ。真相を突き止めたい」
――では、その後が問題である。他人の本性を知って、いったいどうしようというのか。
恋人の携帯を盗み見るなら、「浮気の証拠を突きつけて、きっぱり別れる」というほどの覚悟が必要である。縁を切るための最後の手段としてなら、かろうじてアリかもしれない。
だが、ただの好奇心で何となく見てしまって、「どうしよう、ショッキングなメールを見つけてしまった。問いつめたいが、勝手に見たのも悪いし……」と悩むくらいなら、見ないほうがよい。

メールは、第三者に見られないという前提でやりとりしている秘密の通信である。
それを盗み見るのは、明らかにプライバシーの侵害であり、他人の家に隠しカメラや盗聴器を仕掛けるのと同じくらいに悪質な行為である。そうした仕掛けを必要としないので罪悪感が薄いぶん、かえって始末が悪い。

他人の携帯を盗み見ておいて、「疑わしい行動をとったあなたが悪い」と言っても、「そっちこそ信用できない」と言われればおしまいである。
どうしても他人の携帯を見なければ気がすまないのなら、相手の不義を暴くかわりに自分も信用を失って絶縁される、「毒をもって毒を制す」の相討ちを覚悟しなければならない。

携帯電話の中には、たしかにその人の本心が隠れているかもしれない。
だが、そんな手段で他人の本心を知って、いったい何になるだろう。それは試験でカンニングをするのと同じことである。
試験で毎回不正をして高得点をとっても、いっこうに実力はつかない。カンニングをする人は、「よい成績をとる」ということが目的化してしまっていて、「何のために勉強するのか」という本来の大事な目的を忘れてしまっているのである。

恋人や友人がどういう人か、何を考えているのかということは、顔と顔を向き合わせて付き合っていく中で判断し、理解していくものである。相手の表情、ものの言い方、仕草、声の調子などを全身でくみ取るものだ。それが本気で人と付き合うということである。
他人の携帯を盗み見る癖のある人は、人付き合いの目的を間違っている。他人を「自分にとって利用価値があるかどうか」という目でしか見ていないのである。
人と付き合うことの目的は、本心を暴くことではない。
「裏切られて損をしたくない」というのなら、とるべき唯一の方法は、はじめから誰とも付き合わないことである。

そもそも、他人の本心などというものは、分からないものである。自分で想像するしかない。そして、この「想像する」ということ、自分で考えるということが重要なのである。
「私はあなたのことをこんなにいつも考えて、気にかけていますよ」という態度を示すことが愛情表現であり、思いやりである。
「自分が損をしないために」ではなく、「相手の立場になって考え、よろこびも悲しみも分かち合うために」である。

それでも、他人の本心というのは、分からない。
この世に裏表のない人間がいるだろうか。
自分の心の中が丸見えになってしまう機械があったら、息がつまって誰とも付き合えなくなるだろう。分からないからやっていけるのである。
理解し合う努力は必要だが、親友や夫婦といえども、本心は一生分からない。それを当たり前のこととして、互いに尊重し合い、気遣い合いながらやっていくしかない。
ときには幻滅したり傷つけられたりしながら、人を見る目が養われていくのである。

(文・たかたまさひろ)
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