2012年01月29日

自分はたいした人間ではない

「どうせ自分は誰からも必要とされていない。自分は何の価値もない人間だ」と絶望してしまう人は、自分に自信がないというよりも、むしろ自信過剰の傾向が強すぎるといえる。
「自分はたいして人さまの役には立っていない」と慎ましくへりくだるのは、悪いことではない。
間違っているのは、「だから、自分には価値がない」と短絡に結論づけてしまうことだ。

人は誰も、そんなに偉くはない。
「私は世のため人のために貢献してきた、立派な人間だ」とうぬぼれている人は、はたから見れば痛々しいほどに滑稽なだけだ。
もちろん、人に必要とされる人間になりたいという目標をもつのはよいことである。
と同時に、「自分はたいした人間ではない」と冷静に省みることも大切だ。

高い理想に向かって努力しながらも、まだまだ自分は理想に到達していないという謙虚さをもって生きていけばいいのである。
「私は他人から感謝され、敬われるべき人間だ」という思い上がった考えがそもそも間違っているのだ。
自分は人の役に立っていない。いいじゃないか。自分は人から尊敬されていない。いいじゃないか。胸の底に潜んでいる高慢さを抑えるために、あえてそう自分に言い聞かせるぐらいでちょうどよいのだ。

何に向かって努力しているかということが、その人の人格を決める重要な要素となる。
どういう理想をかかげ、それを実現するためにどう行動しているかということに意味があるのだ。
理想を実現できなくてもいい。いや、実現できたなどと思い上がらないほうがいい。
目標に向かって走り続けている姿こそがすばらしいのである。そんな自分に誇りをもてばいい。

(文・たかたまさひろ)
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2012年01月24日

被害を最小限にとどめる

他人に傷つけられたとき、怒りや憎しみを抱いてしまっては、自分を二重に苦しめることになる。

人は弱さや愚かさから、またときには意図せずに、他人を傷つけてしまうものだ。
社会で生きていく上では、他人から傷つけられることは避けられない。
それは、石につまずいて転ぶのと同じく、単なる不運にすぎないのだ。

不運な目にあったとき、どうすればよいか。
「ああ、運が悪かったな」と苦笑して、さっさと忘れてしまうにかぎる。それが、被害を最小限に食いとどめる方法だ。
電柱に頭をぶつけたからといって、腹いせに電柱を殴りつけて拳まで痛めてしまうのは、愚行と言わざるをえない。

他人に対して怒りや憎しみを感じたときは、こう自分に言い聞かせよう。
「不運にも傷つけられてしまったが、まだ被害は最小限の段階である。私にできることは、これ以上被害を拡げないことだ。いま、私が理知的な人間であるかが問われている」と。

人を恨んで、事態が好転することはけっしてない。ますます悪化するだけだ。
「他人に傷つけられた」という事実は、もはや取り消せない。
最善の策は、被害をそれだけに抑えることである。
相手を恨んで、自分の心まで汚すべきではない。

(文・たかたまさひろ)
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2012年01月19日

「謝れ」と言う人

他人に「謝れ」と命令する人は、自分が他人に心から謝ったことがないのだ。
謝罪は、人に強いられてするものではない。自分が心底申し訳ないと思ってするのでなければ、謝罪とはいえない。

他人から傷つけられたり、迷惑をかけられたりしたときは、二度とそういうことをしないでほしいと要求するのはかまわない。
だが、謝罪まで求めるのは、あまり意味がない。

謝罪は、相手が自発的にしてくれるのを待つしかない。
「謝れ」と命令してしまっては、相手は永久に「心から謝罪する」機会を失うことになるだろう。

他人に「謝れ」と命令する人は、「謝罪とは屈辱である」という程度の認識しかないのだ。
自分が他人に心から謝ったことがなく、いやいや頭を下げたという屈辱的な経験しかないから、逆に他人にもその屈辱を与えてやりたいと願っているだけなのだ。

自分が心から他人に謝罪したことのある人は、けっして他人に謝罪を強要したりしない。
強要された謝罪など無意味であるということが分かっているからだ。
他人に「謝れ」と命令するのは、自分の心の貧しさを露呈するだけの愚かな行為である。

(文・たかたまさひろ)
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2012年01月11日

幸せの証明

以前、友人が雑誌の広告に載っていた「幸せを呼び込むペンダント」というものを買った。
そのペンダントを身につけていると三ヶ月以内に大きな幸運が舞い込むという、かなり怪しげなものだが、「効果がなければ全額返金します」と書かれていたので、試してみる気になったそうだ。

ところがというか果たしてというか、三ヶ月たっても、別段変わったことは起こらない。
友人は、返品しようとメーカーに電話をかけた。
メーカーからの返事は、こうだった。
「もしペンダントをもっていなかったら、あなたは、交通事故で大けがをしていたんですよ」
とんでもないインチキに引っかかったわけだが、しかし、この言葉は、はからずも幸せというものの本質を見事についている。

「何もいいことがない」と言っている人も、その何気ない日常がどれだけ幸せだったかを、失ってはじめて気づくのだ。
プラスを積み重ねることばかりが幸せではない。不幸を意識してこそ、幸せが際立つ。
今が幸せだと思えなければ、どれだけ多くのものをえても、幸せは感じられない。

幸せか不幸かを客観的に論証することはできない。
幸せとは何か。
自分を幸せだと思うこと。その一言に尽きる。

(文・たかたまさひろ)
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2012年01月06日

どちらが悪いのか

夫「おい、何ふてくされてんだよ。亭主が疲れて仕事から帰ってきたってのに、もっと愛想よく迎えられないのか」
妻「何で電話してくれなかったの。一人でご飯つくって待ってる私の身にもなってよ」
夫「しょうがないだろ。お得意さんの接待中に、家に電話なんかできるかよ」
妻「だってこの間、約束したじゃない。今度帰りが遅くなるときは必ず電話するって」
夫「そんなこと言ったっけ」
妻「あなた、いつも生返事ばかりで、私の話なんかまともに聞いてくれないんだから」
夫「うるさいなあ。そんなにガミガミ言われたら、聞く気にもなれないよ」

………

自分は、相手の不機嫌な態度が気に入らない。
相手は、こちらの突っかかるような言い方こそが不満だという。
自分は、相手がこちらを不愉快にさせるのがいけないのだと思う。

「どちらが悪いか」は、「どこまでさかのぼるか」という問題にすぎない。
相手のほうが悪いと思っていても、一つ前の理由までさかのぼれば、自分が悪いことになる。
双方が、自分の都合のよいところまでさかのぼって文句を言い合っているから、収拾がつかない。

「どちらが悪いのか」という言い争いは、水かけ論に終わり、いたずらに精神を疲弊させるだけである。
「相手が悪いのだから、自分の言動に責任はない」という言い訳は卑怯だ。
過去をほじくり返すのはやめて、今の自分の態度に責任をもつべきである。

「私のほうが絶対に正しい」という主張を押しつければ、それで勝ったつもりになっても、のちのち相手に恨まれることになる。人の恨みをかうのは損であり、賢いやり方ではない。
「強い」ことよりも、「賢い」ことのほうが人間として上等である。

どちらが正しいかは、立場によって違うのだから、たいした問題ではない。自分には自分の言い分があり、相手には相手の言い分がある。
自分の言い分を一方的に押しつけるのではなく、「あなたの気持ちも分かるが、私はこう思う」という言い方をするだけでも、ずいぶんと違う。
「どう折り合いをつけるか」で、自分の知性が試されていると考えればよい。

(文・たかたまさひろ)
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