2011年10月26日

他人に操られる人

「怒りっぽい人」ほど、他人に操られやすい。
わざと怒らせて、本音を言わせる。
わざと怒らせて、自滅させる。
わざと怒らせて、笑いものにする。
「怒りっぽい人」を手玉にとるのは簡単だ。

「他人の賞賛を求める人」も、操られやすい。
うまくおだてて、利用する。
うまくおだてて、油断させる。
うまくおだてて、恥をかかせる。
「賞賛を求める人」を口車に乗せるのは簡単だ。

すぐに怒る人、他人の賞賛を求める人は、「私を煮るなり焼くなり好きにしてください」と言っているようなものだ。
自分の感情を抑制できる人、自分の価値を自分で認められる人は、そうたやすく他人に操られはしない。

(文・たかたまさひろ)
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2011年10月20日

私はそうは思いませんが

「こんなことも知らないなんて、バカだな」と言われたら、こう答えればよい。
「あなたは私をバカだと思うのですね。私はそうは思いませんが」

「お前は、まったく役立たずだな」と言われたら、こう答えればよい。
「あなたは私を役立たずだと思うのですね。私はそうは思いませんが」

他人にバカにされて、腹を立ててしまっては、相手が言ったことを認めたことになってしまう。
言われたことについて、自分もそう思うのなら、他人に言われなくても改めるよう努力をしなければならないし、自分がそう思わないのなら、まったく気にすることはない。

「他人に言われたこと」を気に病む人は、自分の考えをもたない人である。
他人にバカにされたからといって、自分が本当にバカになるわけではない。相手が「人をバカにするような傲慢な人間である」という事実があるだけだ。それは相手が解決すべき問題であって、自分とは関係のないことである。
自分は自分の考えに従って生きればいい。

自分がどう考えようと自由であるのと同じように、他人がどう考えるのも自由である。自分の意に沿わないからといって他人を変えようとするのもまた愚かなことだ。
他人には他人の考えがあり、自分には自分の考えがある。どちらが正しいわけでもない。
人の数だけ意見があるのだから、他人の考えをいちいち否定して回っていたらきりがない。
他人の意見は、「そういう考え方もある」と、ただ参考にするだけでよい。

他人にバカにされたときは、冷静にこう言い返そう。はっきり言えない立場の相手なら、心の中でひっそりつぶやこう。
「あなたはそう思うのですね。私はそうは思いませんが」と。

(文・たかたまさひろ)
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2011年10月13日

変わらないものはない

私たちは、毎日を心穏やかに過ごしたいと願う。
そして、心穏やかに過ごすためには、「安定」が必要だと考える。
しかし実は、安定を求めれば求めるほど、心は不安定になるものなのだ。

仕事や財産を失いたくない。
恋人に嫌われたくない。
いつまでも健康でありたい。

与えられたものを「当然」とみなし、それを失えば「不幸」と嘆く。
得たものはいずれ失うのだから、これでは不幸になる宿命を自らに課しているも同然である。

「世の中で、変わらないものはない」
心穏やかに過ごすには、この事実を受け入れるしかない。
「失った」のではなく、「変わった」のだ。
変化を受け入れたくないというなら、時間を止めるしかない。

毎日、新しい人生を生きるつもりで過ごそう。
昨日までに得たものは一度ご破算にして、今日、新しく生まれ変わったと考える。
はじめから与えられていたものは、まるまる儲けものだ。
何かを得ても、今日かぎりだと思えば、執着心も生まれない。
一日一日、「今あるもの」のありがたみを噛みしめながら生きる。
嫌なこと、悲しいことがあっても、今日かぎり。明日からはまた新しい人生が始まる。

一生を80年とすれば、およそ3万通りの人生を経験できることになる。
変化を受け入れ、楽しもうじゃないか。

(文・たかたまさひろ)
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2011年10月09日

素直に人から学ぶ

ある調査によると、7割以上の人が「自分の能力は平均以上である」と思っているそうだ。
ほとんどの人は、「自分は正当に評価されていない」「本当はやればできる」「能力を発揮する機会がないだけだ」と自分を過大評価し、都合の悪いことはごまかして、かろうじて精神の健康をたもっている。

自分に自信をなくし、うつ状態になってしまう人は、ある意味で正直すぎるのだ。冷静に客観的に、「正しく」自分の能力を評価するから、落ち込んでしまう。自分に嘘をついたり、責任を転嫁したりすることができない。
だがしかし、それは考えようによっては、自分をごまかしている人よりも一歩進んでいるともいえる。高いところを綱渡りするのではなく、しっかり地面を踏みしめて歩いている。
人間の成長は、自分を正しく理解することから始まるのだ。

「私には能力が足りない」と嘆いている人は、少なくとも「自分の能力を正しく評価できる」という能力がある。これは身の程知らずのうぬぼれ屋にはない、すばらしい能力だ。
問題は、その先である。
「だから、悔しい」「私には価値がない」と思ってしまうのがいけないのだ。

能力の低い人間は、生きる価値がないのだろうか。
だとしたら、もし自分が高い能力を手に入れたら、今度は自分よりも能力の低い人を同じように「生きる価値がない」と見くだすのだろうか。
その傲慢さが自分を苦しめているのだ。
劣等感は傲慢と表裏一体である。

自分の能力が低いと思うなら、素直に人に学べばよいのである。
ちっぽけな虚栄心や競争意識を捨て、他人に敬意を示し、教えをこえばよい。
相手も喜ぶし、自分も成長できるのだから、いいことずくめだ。
たとえ能力が低くても、謙虚に他人から学ぼうとしている人をバカにする人は(よほどの性悪でないかぎり)いない。

知能や身体的能力は生まれもってほぼ決まっているが、謙虚さや誠実さは、誰でもいくらでも高めることができる。
人間の価値は、人よりも速く走ったり、うまくお金を稼いだり、話術で人を引きつけたりできる能力で決まるのではない。
謙虚に、誠実に。これだけを心がけておけばよいのだ。

能力によって人間に序列をつけ、勝つか負けるかの戦いの渦でもがき苦しむよりも、「他人は皆、師匠」だとみなして、学べるところは何でも学んでやろうという態度で臨めば、何も怖れるものはない。

(文・たかたまさひろ)
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2011年10月05日

他人の心は他人の自由

他人から嫌なことを言われたり、されたりしたときは、その言動に対して抗議をするのはかまわない。
しかし、相手の心の中まで責めてはいけない。

「不愉快だからやめてくれ」と言うのはよいが、「あなたはなんて冷たい人だ」と言ってはいけない。
「悪口を言うな」と言うのはよいが、「なぜ私を嫌うんだ」と言ってはいけない。
「ちゃんと仕事をしろ」と言うのはよいが、「やる気を出せ」と言ってはいけない。

どんな性格で、何を重んじて生きようが、誰を好きになろうが嫌おうが、その人の自由である。というより、他人にはどうしようもないことだ。
行動は他人が強制することはできても、心の中は、本人が変わろうと思わないかぎり、けっして変わらない。

実際に他人から傷つけられたり、迷惑をかけられたりしたときは、その都度、行為自体を非難するのはかまわない。が、相手の人格を責める権利は誰にもない。
自分がそれほどご立派な人格者だというなら、他人のアラを責め立てるよりも、長所を引き出して伸ばしてやればいいのだ。
相手がどんなに嫌な性格だったとしても、その人格を否定するほうも相当に意地が悪い。

他人の心を操作しようとしてはいけない。
人間関係に強いストレスを感じてしまうのは、実際に受けている被害以上に、他人の心までも自分の思いどおりに操ろうとして、それができないもどかしさに苦しんでしまうからだ。

当然ながら、自分が何を考えるかが自由であるのと同じように、他人がどう思うかも自由である。
どうしようもないことはどうしようもない、と割り切るしかない。
他人の心に介入することをやめれば、ストレスは半分以下にまで緩和されるだろう。

(文・たかたまさひろ)
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