2011年09月30日

無限の可能性?

人生を選ぶにおいて、選択肢は少ないよりは多いほうがよいに決まっているが、あまりに多すぎるのは、かえって不幸といえるかもしれない。
どれを選んでも、つねに「もっとほかの道があったのではないか」という疑念がつきまとう。「これでよかった」という安心感がいつまでたってもえられないのだ。

「無限の可能性」という言葉がよく使われる。これは理屈としては嘘ではない。
ただし、条件のよいところには希望者が殺到するわけだから、そこには過酷で非情な争奪戦が待ち受けている。
みなが皆、望むとおりの成果をえられるわけではない。大多数の人は、やはり適当に妥協し、見切りをつけなければならない。
期待をあおった側に文句を言っても、「可能性はあったのに、実力がなかっただけだ」と自己責任に帰せられておしまいだ。

職業も結婚も住居も、欲をいえばきりがない。
視野を広くもつのはよいが、「無限の可能性を追う」のなら、「一生かかっても満足できない」ことを覚悟しなければならない。
社会制度としてはすべての人に無限の選択肢が与えられているが、人生の時間にも個人の能力にも限りがあるのだから、実際の選択肢は有限だ。
自分で選択肢を絞らなければならない。

「万のうちの一つ」を探しあぐねてさ迷っている人よりも、「五つから一つ」を選んで充足している人のほうが幸せではないだろうか。
真面目にひたむきに生きていれば、チャンスは向こうからやってくる。それくらいの潔さがほしい。

(文・たかたまさひろ)
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2011年09月23日

これでよかった

もし道に落ちていたガムを踏んでしまったら、「ああ、なんてついてないんだろう」と落ち込むよりも、「犬のフンだったら、臭いが染みついて困っただろうな」と思うほうがいい。
犬のフンを踏んでしまったら、「五寸釘だったら、大ケガをしていたところだ」と思えばいい。

車の渋滞に巻き込まれたら、時計を気にしてイライラするよりも、「スピードを出していたら、トラックと衝突していたかもしれない」と思うほうがいい。
事故にあってケガをしたなら、「死ななくてよかった」と思えばいい。

不運に遭遇したとき、いくらそれを嘆いても、事態が改善されるわけではない。
ならば、「もっと悪いことが起こっていたら」と想像をふくらませて、「この程度ですんでよかった」と思うほうが精神の健康によい。

もちろん、現実は一つであり、「もしも」の世界は存在しない。
存在しないからこそ、勝手に自分の都合のいいように解釈してしまえばいいのだ。
一つのゲームだと思って楽しめばいい。

(文・たかたまさひろ)
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2011年09月20日

好きな道を選ぼう

「恋人のことをそれほど好きではないが、強く求められたから、仕方なくつき合っている」という人よりも、「心から好きになった人に告白して、ふられてしまったが、その思いは今も胸に大切にしまっている」という人のほうが、愛に満たされていると言える。

「親に大学に行けと言われたから進学したが、大学生活がちっともおもしろくない」と愚痴をこぼしている人よりも、「どうしても大学で学びたいことがあったから、学費は自分で工面するという条件で、親の反対を押し切って進学した」という人のほうが、実りある人生を送ることができる。

何ごとも、「好きこのんでやっているわけではない。人に言われたからそうしているだけだ」ということにしたほうが、表面的には楽なように思える。失敗しても責任をとらなくてよいし、傷つかなくてすむ。
「頼まれて仕方なくやっているんだから、ガタガタ文句を言うな」と、自分のわがままを通しやすいようにも思える。

だが、「好きでやっているわけではないこと」をいくら積み重ねても、残るものは虚しさ以外に何もない。
十の「仕方なくやっていること」にわずらわされるよりも、たった一つの「どうしてもやりたいこと」に情熱を捧げるほうが幸せだ。

いや実は、「人に言われたから仕方なくやっている」ということなど、ありはしない。「嫌われたくないから」「庇護を受けたいから」「ほかに楽しいこともないから」という消極的な理由で、やはり自ら選んでいるのだ。
どうせ選ぶなら、積極的に、自分の好きな道を選ぼうじゃないか。
好きな道を突き進んでいる人は、たとえ挫折しても、けっして後悔しない。不自由でも不平を言わない。
自分で選んだのだから、言い訳ができない。だからこそ、自分の人生を生きているというたしかな手応えを感じられるのだ。

(文・たかたまさひろ)
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2011年09月17日

要求する人は裏切られる

友人が仕事で困っていたので、役に立てる人を紹介したとする。
その友人は、おかげで見事成功をおさめた。
当然、礼の一言ぐらいあるものだと思っていたら、その後まったく音沙汰なし。
裏切られたような気になる。

恋人が、「あなただけを一生愛し続けます」と言ってくれたとする。
しかし数年後、手の裏を返して「ほかに好きな人ができたから別れてほしい」と言われる。
一生愛すると言ったくせに嘘だったのか、と裏切られたような気になる。

しかし、そもそも「助けてやったのだから感謝しろ」「一生愛すると言った約束を守れ」と相手に求める気持ちがなければ、裏切られることもなかったのだ。
もちろん相手の態度は不誠実で、責められるべきものだが、それはあくまで相手の問題だ。そういう不誠実な人は、いつか手痛いしっぺ返しを食うだろう。
ただ単に「気の毒な人」と思えばよいのである。

「裏切られた」というのは、「自分が望んでいたとおりの利得をえられなかった」ということだ。
自分の主観、自分の都合、自分の欲求にもとづいて注文をつけていただけである。

裏切られることの多い人は、要求の多い人である。
「私に利益をもたらしなさい」と他人に強要する権利は誰にもない。
「人助けになったのだから、それでいい」「いままで愛してくれただけでも、もったいないくらいだ」という謙虚さがあれば、他人の不誠実な態度に対して、「悲しい」「寂しい」と思うことはあっても、「裏切られた」という屈辱は感じずにすんだのだ。

裏切られることの多い人は、要求の多い人である。
他人に何かをしてもらうことを当たり前だと思わなければ、けっして裏切られることはない。

(文・たかたまさひろ)
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2011年09月13日

メンツというやっかいなもの

人間関係に気を遣いすぎて疲れ果てたとき。
さまざまな悩みが頭の中を駆け巡ってパンクしそうになったなら、一度それらを大胆に捨て去って、すっきり整理してみよう。
人間関係で気をつけるべきことは、一言でいってしまえば、「他人のメンツをつぶさないこと」。
つまり、他人を見くだしたり、ないがしろにしたりするような態度をとらないこと。
これさえ心がけていれば、それほど大きな問題は発生しない。

他人に迷惑をかけてしまったり、他人から嫉妬を受けたり、他人と意見が対立したり……。不本意ながら人の怒りや恨みをかってしまうことは、社会で生きていく上で避けられない。
だが、人はたいていの場合、実際に被った損害に対してというよりも、「気持ちを分かってもらえなかった」「一言もあいさつがなかった」「無神経な言い方をされた」など、メンツをつぶされたことに対して怒っているのだ。
問題そのものは解決できなくても、相手のメンツをつぶさないように気を配ることで、人間関係は大幅に改善されることが多い。

メンツとは、まったくもって、やっかいなしろものだ。
ケガをしないようにと、鉄のよろいを着て歩いているようなものである。多少のケガを覚悟してでも、そんなものは捨て去ったほうが楽になれるし、行動の幅も広がるのに。
メンツが邪魔をして、みすみす実益をふいにしてしまうことは多々ある。

しかし、他人に向かって「メンツなんて捨てなさい」というのは、よけいなお世話だ。それこそ相手のメンツをつぶすことになってしまう。
どんなに腹の立つ相手でも、何を考えているか分からない相手でも、最低限のプライドをもっている。プライドを傷つければ恨みをかう。その当たり前の事実を忘れてはならない。

自分はメンツなどという面倒なものは捨て去り、他人のメンツはつぶさないように気をつける。
これがもっとも賢く、楽な生き方だ。

こちらのメンツをつぶそうとかかってくる相手には、真っ向から立ち向かわずに、さらりと受け身でかわせばよい。
偉そうに自慢したがる相手には、わざとらしいくらいに褒めちぎってやればいい。
高圧的な態度をとる相手には、仰々しくいんぎんに頭を下げておけばいい。
それで何か損をするわけではない。
相手の顔を立て、引き替えに自分は「わずらわしさから解放される」という大きな実利を手にできるわけだ。
相手は重い鉄のよろいを身にまとい、自分は身軽に動き回っている。そう思えば腹も立たない。
ついでに相手もメンツというもののバカバカしさに気づいてくれたら、これほど結構なことはない。

(文・たかたまさひろ)
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2011年09月10日

楽しんだほうの勝ち

他人を傷つけたほうの勝ちではない。
人生を楽しんだほうの勝ちである。

他人を困らせたほうの勝ちではない。
人生を楽しんだほうの勝ちである。

他人を見くだしたほうの勝ちではない。
人生を楽しんだほうの勝ちである。

他人を言い負かしたほうの勝ちではない。
人生を楽しんだほうの勝ちである。

他人に復讐したほうの勝ちではない。
人生を楽しんだほうの勝ちである。

(文・たかたまさひろ)
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2011年09月06日

心の問題は後回し

何もかも嫌になって、投げだしてしまいたくなるときがある。
激しい怒りにかられて、世の中すべてを呪いたくなるときもある。
そんな心の弱さ、みにくさが情けなく思えて、自分が嫌になる。
悩めば悩むほど堂々巡り。気分は落ち込むばかり。
そんなとき、もっともよい解決法は、「何も考えず、深呼吸をすること」かもしれない。

何でも「心の問題」だととらえることはない。
身体の調子を整えれば、心もすっきり晴れることもあるのだ。
家の中でもんもんと悩むよりも、ジョギングでもして汗をかこう。
難解な哲学書を読みふけるよりも、散歩に出かけて、見晴らしのいい公園で新鮮な空気をたっぷり吸い込もう。
焦りや苛立ちがおさまらないときは、目を閉じ、背筋をしゃきっと伸ばして、ゆっくり腹式呼吸をしよう。

規則正しい生活をし、栄養のある食事をとり、適度な運動をし、睡眠を十分にとること。
それらは、生きていく上でもっとも重要な基本事項だ。
「忙しくて、そんな余裕はない」というなら、優先順位を間違っている。健康を犠牲にしてまでえるべき価値のあるものなどない。

身体の具合が悪ければ、気分もさえないのは当然だ。
「心の問題」は、身体の調子を整えた後で、最後の最後に考えればよいことだ。

(文・たかたまさひろ)
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2011年09月01日

幽霊が怖い理由

私は幽霊を見たことがないし、その存在を信じてもいないが、ある霊能者が語っていた言葉は、なるほどもっともだと思った。
「幽霊を怖がる人は、心にやましさがある」

幽霊は、この世に心残りがあって、何かを訴えるために現れる。
誰かに愛を伝えたいのかもしれないし、恨みを晴らしたいのかもしれない。
幽霊を怖がる人というのは、幽霊に悪さをされると思い込んでいる。つまり、多くの人の恨みをかっているから、復讐されることを恐れているのだ。

幽霊を見ても、怖がることはない。
その幽霊は、「遊んでほしい」と望んでいるのかもしれないし、「お世話になりました」と別れを告げにきてくれたのかもしれないのだから。
幽霊に悪さをされるのは、これまでさんざん悪事をはたらいてきた人だけだ。

(文・たかたまさひろ)
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