2011年07月26日

恩義は相手が感じるもの

会社を整理解雇された中年サラリーマンが嘆く。
「長年、会社のためにつくしてきたのに、恩を仇で返されたような気分だ」
だがそれは、まるで一方的に貸しをつくったような言い方だ。
「長年、会社に雇われ、給料をもらってきた」のだから、それでチャラである。貸し借りなどない。
解雇が不当なものであるなら法的手段で訴えるべきだが、恩知らずだの何だのという感情論は別問題だ。

「恋人のわがままを許してやったのに」
「友人の頼みをきいてやったのに」
「家族のために働いてきたのに」
借りよりも貸しのほうが多い、と思うことは不幸である。
他人の不義理を責めてばかりいる人は、きっと自分も他人から恩知らずだと思われている。何しろ「自分が他人にしてやったこと」しか頭にないのだから。

まったく自分のためにならないことをやる人はいない。
「他人のためにしてやったこと」も、結局は自分のためなのだ。「見返りが少ない」と腹を立てていることが何よりの証拠である。
「恩を仇で返された」のではなく、「恩を売りつけようとする態度がうとまれ、愛想をつかされた」だけなのかもしれない。

恩義は相手が感じるもの。
押しつけなければ感じてもらえない恩義など、たいしたことはないのだ。
借りばかりつくって申し訳ない、他人や社会にもっと恩返ししなければ、と思いながら生きるほうがはるかに幸せである。

(文・たかたまさひろ)
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2011年07月19日

温かい理解者、厳しい監督者

他人に認めてもらえることは、大きなよろこびだ。
だが、もっとすばらしいのは、他人が評価してくれなくても、自分で自分を認められることである。
自分をもっとも理解しているのは、自分以外にない。
自分が自分の一番温かい理解者であればよい。

他人から批判されれば、悔しいし、悲しい。
だが、その批判が当を得ているなら、他人に批判される前に、自分で過ちに気づいて改めるべきだったのだ。
自分が自分にとって一番厳しい監督者であるなら、他人の批判に必要以上に怯える必要はない。

他人から評価されればよろこび、批判されれば悔しがるだけでは、あまりにも自分というものがなさすぎる。
他人から認められなくても、やるべきことはやる。責められなくても、やってはいけないことはやらない。
他人がどうであれ、自分が自分の「もっとも温かい理解者」であり、「もっとも厳しい監督者」であればよいのだ。

(文・たかたまさひろ)
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2011年07月13日

誰も人の顔なんか見ていない

ある定食屋のチェーン店に入った。
愛想のいい女性の店員さんが「お待たせしました〜」と持ってきたのは、私が注文したものとはまったく別の品だった。
間違っている旨を伝えると、店員さんは「申し訳ありません」と丁寧に謝ってくれて、厨房に確認に行った。

すぐに店員さんが戻ってきて、「私の伝票の記入ミスでした。今からつくり直しますので、お時間をいただいてもよろしいですか」と訊かれたので、私は「かまいませんよ。特に急いでいませんので」と応じた。
店員さんは申し訳なさそうに深々と頭を下げた。かえってこちらが恐縮するほどだった。
しばらく待つと注文どおりの料理が運ばれてきて、そのときも店員さんは何度も謝ってくれた。

食事が終わり、私は伝票をとってレジに向かった。
混雑する時間帯をだいぶん過ぎていたので、店内に客は数えるほどしかおらず、店員さんは奥に引っ込んでいるようだった。
私が「すみません、お願いします」と呼ぶと、さっきの店員さんが出てきた。そして、私にこう尋ねた。「お持ち帰りですか」
あまりの意外な言葉に呆然としていると、あちらも小首をかしげて、もう一度「お持ち帰りですか」と訊いてきた。
「いえ、会計です」と戸惑いながら伝票を差し出すと、店員さんは「あ、すみません」とばつが悪そうにレジを打ちはじめた。

あんなに印象的なやりとりがあったのに。ほかに客は数えるほどしかいなかったのに。
店員さんは、私の顔をまったく覚えておらず、新しい客がきたと勘違いしたのだ。
ふと侘びしさにおそわれたが、「なるほど、こんなものか」と妙に納得し、安堵を覚えた一幕でもあった。
やっぱり、人は他人の顔なんかよく見ちゃいないんだ。

私のようにあがり症の小心者は、自分が他人の目にどう映っているかが気になって仕方がない。
特に初対面の人と話すときは、緊張のあまり、全身の張りつめた神経がひりひりと痛む。
自分の表情は相手に不快感を与えていないか。卑屈な愛想笑いをしていないか。言葉遣いは間違っていないか。気にすればするほど、よけいに顔はこわばり、声はうわずる。
そして別れた後も、おかしなことを言ったんじゃないか、変な奴だと思われていないか、といつまでもくよくよ気に病む。
でもそれは、ただの自意識過剰にすぎないんだ。

そう、自分が気にするほど、他人は自分の顔をよく見てもいないし、覚えてもいない。
日本ではふつう、人の顔をじろじろ見るのは失礼だとされている。むつみ合う恋人同士でもないかぎり、相手の表情の細かい変化まで注視している人はいない。

自分だって、あの時の店員さんの顔や声を覚えていない。
だのになぜ、自分だけは他人に細かく観察されていると思い込むのだろう。
それは、実は「見られたい」という欲求の裏返しなのかもしれない。気が小さいというよりは、自己顕示欲が強すぎるのだ。
誰も気にしちゃいないのに、勝手に気を張って、へとへとに疲れ切っている。まったくの空回り。まったくの独り相撲。

「誰も私のことなんか見ちゃいない」
きょうも自分にそう言いきかせ、家を出る。
そっと背中を押されるような勇気と、一抹の寂しさを胸に秘めて。

(文・たかたまさひろ)
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2011年07月06日

人は被害者になりたがる

国家が戦争を始めるとき、必ずといっていいほど「正義のため」「自由のため」ということを強調する。
相手国が先に悪いことをした。自分たちの国は被害を受けた。本当は戦いたくはないが、これ以上の被害を防ぐためには攻撃せざるをえない。
「自分たちこそ被害者だ」と訴えて、それを上回る損害を相手に与えることを正当化する。

戦争が好きな人たちは、実のところ戦いたくてうずうずしている。
しかし、どんなに好戦的な人でも、自分が加害者、侵略者という汚名を着せられたくはない。だから、血眼になって「自分が受けた被害」をほじくり出そうとする。
ほかの国を攻撃できる口実になれば、どんなささいなことでもいいのだ。

「他人にこんな失礼な態度をとられた」
「こんな無神経なことを言われた」
「いつも他人に意地悪をされる」
あいつが悪い、こいつが悪い、と何かにつけて食ってかかる人がいる。
そういう人は、心の奥に他人を攻撃したいという欲求を隠しもっていて、それを正当化する理由を探しているのかもしれない。

人は被害者になりたがる。
被害を受けたことを嘆きながら、実はみずからすすんで、あるいは無自覚のうちに、被害者を演じたがる。
「被害を受けた」という大義名分をえれば、心置きなく他人を攻撃できるからだ。「私も本当は怒りたくなんかない。でも、他人が悪いのだから仕方がない」と自分に言い訳をして。

「私はかわいそうな被害者だ」という思いにとらわれたなら、一度自分にこう問いかけてみなければならない。
被害を受けたから腹が立つのではなく、本当は、「自分の人生がつまらない」「自分を好きになれない」という苛立ちをつねに抱えていて、そのうっ憤のはけ口をどこかに求めているのではないだろうか、と。

(文・たかたまさひろ)
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2011年07月01日

学問のすゝめ

福沢諭吉の「学問のすゝめ」といえば、冒頭の一文があまりにも有名だ。
『「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言へり』

しかし、これはただ太平楽に「人はみな平等ですよ」と言っているのではない。
重要なのは、後に続く文章のほうだ。これが厳しい。

『「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり』

諭吉は、人は無条件で対等だとは言っていない。学ぶ努力をしない者は愚かだと言い切っている。
愚人か賢人かは、生まれつきのものではなく、各人の努力の度合によって決まるのだということである。
何の努力もせず、義務もはたさず、「平等」という金科玉条を盾に自分の権利だけを主張する人は、愚かな人だと見くだされても仕方がない。

(文・たかたまさひろ)
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