2011年06月30日

理屈に合わない嘘

ある男が、市場で木彫りの神像を売っていた。
誰も買ってくれないので、男は、客を呼び込もうと大声で叫んだ。
「商売繁盛の福の神はいらんかえ!」
――イソップ物語の寓話の一部である。
商売の神様を扱っているのに、自分はまったく儲かっていないという滑稽さを皮肉っている。

世の中には、いっこうになくならない振り込め詐欺など、人をだまして利益を得ようとする不届き者がいる。
だますほうが悪いのは言うまでもないが、だまされないための知恵も必要である。
「自分が相手の立場だったら」と考えれば、理屈に合わない嘘は、たいていは見抜けるはずである。

数字選択式宝くじロト6の当選番号を事前に教えると言われ、40代の男性会社員が数百万円をだまし取られたという記事が新聞に載っていた。
宝くじの当選番号を事前に知ることなど絶対に不可能だが、もしそんなことができる人がいるなら、なぜ他人に教えたりするだろうか。自分でその番号のくじを買って大儲けすればよいだけのことである。

ある若い女性が、既婚男性と交際していた。
女性は、男性の「妻とはいずれ別れて、君と一緒になりたい」という言葉を信じて、ずるずると付き合い続け、あげくに捨てられた。
相手は、「妻に嘘をついて浮気をしている不誠実な男」である。そんな男の言葉をどうして信じられようか。
「あなたが正式に離婚してからお付き合いしましょう」と言えば、男の本心は見抜けたはずである。

もちろんどちらが悪いかといえば、だましたほうである。
しかし、あえてだまされた側の悪い点を挙げれば、「手っ取り早く利益を得ようとしたこと」にある。
冷静に考えればおかしい話なのに、「自分だけは大丈夫」と抜け駆けを図った利己心につけいられたのである。

「人を見たら泥棒と思え」と冷徹に割り切ることはできなくても、「自分の判断を信じる」と考えればよい。
「他人にそう言われたから」と鵜呑みにするのではなく、自分で考え、納得した話だけを信じるようにすべきである。

自分だけが甘い汁を吸うことなど、まずありえないと思ったほうがよい。そんな方法があるならとうに知れ渡っているはずである。
利益は、根気よく時間と労力をかけて得るしかない。
不当な利益を得ようとする輩にだまされないようにするためには、自分も「利益を得るためには、正当な手順を踏む」ことである。

(文・たかたまさひろ)
このページの上へ
2011年06月27日

自分の陰口を耳にしたら

「誰々さんがあなたのことをこんなふうに言っていたわよ」と陰口を聞かされたら、なかなか心穏やかではいられないものだ。
しかし、人づてに聞いた自分の陰口というものは、かなり大げさに脚色されたものと考えてまず間違いない。

自分だって、たいした悪意はなくても、軽い気持ちで他人の噂話をしてしまうものである。
悪意があるのは、どちらかといえば、噂話をした人よりも、それをわざわざ本人に伝えた人のほうだ。

直接聞いたわけでもないのに、自分の陰口を言っていたという人のことを軽々しく非難すべきではない。
そして、特に気にする必要もない。たいていの場合、それほど悪意はないのだから。

(文・たかたまさひろ)
このページの上へ
2011年06月23日

欲望が生み出したもの

離婚したなら、その最大の原因は、結婚したことである。
会社が倒産したなら、その最大の原因は、会社を設立したことである。
高価な宝石が盗難にあったなら、最大の原因は、宝石を購入したことである。

得たものを失ったとしても、それはマイナスではない。プラスがゼロになっただけのことだ。
はじめから修行僧のように禁欲的な生活をしていれば、失うものもなかったはずだ。
しかし、それではあまりに味気ないので、私たちは地位、財産、愛情、賞賛などを求め、ゴテゴテと自分を飾りつけようとする。生きるのに必要以上のものをせっせとため込み、手放すまいと執着する。

何かを欲するのは人間の逃れられない性分だ。
欲望をもつのは悪いことではないが、さして褒められたものでもない。
欲によってよろこびも得られるが、また欲によって苦しめられもするということをあらかじめ了解しておくべきである。

自分の欲望を満たしていたものを失ったからといって、重大な価値が損なわれたかのように悲嘆することはない。損なわれたのは、自分本位な欲望の所産、ただそれだけだ。
丸裸にされて、はじめて自分の人間としての価値が問われるのである。そこから目を背けてはならない。

(文・たかたまさひろ)
このページの上へ
2011年06月19日

第一の目的を忘れずに

職場に馬の合わない同僚がいる。
上司が私を嫌っているような気がする。
鼻持ちならない後輩がいて、癪に障る。
ああ、もっとよい人間関係に恵まれていれば、楽しく仕事ができるのになあ……。

そういう不満にうつうつとしたときは、「何のために仕事をするのか」という第一の目的に立ち返ってみよう。
仕事の目的は、まず何よりも、「生活の糧を得る」ことだ。
ほかにも「良好な人間関係を築く」「世の中の役に立つ」など、人によって目的はいろいろあるかもしれないが、それらはあくまで付随的なものだ。

「収入を得られない」という事態に陥らないかぎり、それほど深刻に悩む必要はない。
仕事は、人と仲よくするためではなく、自分の暮らしを立てるためにするものだ。
仲のよい友達を見つけたいなら趣味のサークルにでも入ればよいし、他人の役に立ちたいだけなら無償でボランティア活動をすればよい。

同僚と仲が悪くても、上司が評価してくれなくても、責任をもって仕事をし、定められた給料をもらっていれば、目的は達成しているのだから十分だ。
自分が、ほかでもない自分の利益のためにやっているのだから、他人が協力的でないといって文句を言うのは筋違いである。

大学に通う第一の目的は、勉学に勤しむことだ。
勉強さえしていればよいというものでもないが、「友達ができないから、大学に行ってもつまらない」と考えるのは順序がおかしい。
自分の学びたい学問を学べることの意義に較べれば、それ以外の悩みはささいなものである。

わざわざ友達をつくるために安くない学費を払っているわけではない。友達と遊ぶことは二の次に考えておけばよい。
そもそもの問題は「友達ができないこと」ではなく、「たいした目的意識もなく漫然と進学したこと」にある。何のために大学に通うのかという原点から見直す必要がある。

第一の目的を果たせられない事態に陥ったなら真剣に悩むべきだが、それ以外の問題によって本来の目的さえも投げだしてしまうのは、まったく本末転倒だ。
あれもこれもと欲張っていてはきりがない。
目的を一つにしぼり、本来の目的が達せられたなら、それでよしとしなければならない。

(文・たかたまさひろ)
このページの上へ
2011年06月12日

自分が自分の支配者

第一に、他人にどう思われるかで自分の値打ちが決まるのではない。

第二に、「他人にどう思われるかで自分の値打ちが決まる」と考えるのなら、やるべきことは、自分の意見や感情は押し殺して、召使いが主人に仕えるように他人に追従することだ。
「他人が私を認めてくれない」と文句を言ってはいけない。
自分を値踏みする権利を他人に与えておきながら、他人が決めたことにあれこれケチをつけてはならない。自分の支配者は他人であり、自分はその奴隷、召使いにすぎないのである。
奴隷が主人にたてつくことは許されない。主人の機嫌を損ねないよう、ひたすらに媚びへつらい、とりいるしかない。

奴隷のごとき人生を送るのが嫌なら、自分の幸せは自分で見つけることだ。
他人に認められることは、うれしいことには違いないが、それはただの「励み」とすべきだ。幸せのすべてを他人にゆだねてはならない。
試合に負けたスポーツ選手が、「ファンの応援が足りないから、やる気が出ない」と言ったら、どう思われるだろうか。よけいに見放されるだけである。

他人が自分の値打ちを決めるのではない。
自分の値打ちを決めるのは自分だ。自分の支配者は、ほかでもない自分自身である。

(文・たかたまさひろ)
このページの上へ
2011年06月07日

痛みや悲しみを癒すもの

幼い子供がケガをすると、母親が患部に手を当て、「痛いの痛いの、とんでけ」と言う。
子供は、自分の痛みを理解してもらったこと、自分を守ってくれる人がいるという安心感をえたことで、気分が和らぐ。
昔から伝承されてきた、痛みを忘れるおまじないのひとつである。

もっといい方法があるということを知人から聞いた。
これは、その人がずっと以前に田舎町で実際に見た光景だそうである。
子供が公園で走り回っていて、木にぶつかり転んだ。子供は痛いと泣きさけんだ。
祖母らしき婦人がやってきて、子供を抱き起こした。
おばあさんは、孫をあやすのかと思いきや、木のほうをさすって「お前も痛かったろう」と言った。
子供は、ポカンとしていたが、やがてすっかり泣きやんで、おばあさんと一緒に木を優しくなではじめた。

ぶつかった子供も痛いだろうが、ぶつかられた木のほうも痛い。
木にも石にも土にも、あらゆるものには生命がある。
ぶつかるということは、必ず相手がいるということである。
痛いのは自分だけではない。相手の痛みを気遣うことで、自分の痛みはたいしたことないと思えるようになる。
おばあさんは、きっとそう教えたかったのだろう。

「癒し」という言葉がもてはやされて久しい。
痛みや悲しみで傷ついた心を癒すことは大切だ。
しかし、「こんなに傷ついた自分を癒してほしい」というだけでは、やや子供じみている。「痛いのとんでけ」と同じ程度だ。
「自分の痛みを分かってほしい」と思うのと同じくらいに、他人の痛みを分かろうと努めること。
傷ついているのは自分だけではないということを理解すること。
「癒し」を超えた「哀れみ」「慈しみ」によって、心は豊かに成熟するのではないだろうか。

(文・たかたまさひろ)
このページの上へ
2011年06月02日

偉そうにする人

他人に偉そうな態度をとられて腹が立つのは、「自分も偉そうにしたい」という対抗心があるからである。

偉そうにする人は、誰も自分に敬意を表してくれないから、「もっと私を認めてくれ」と涙ぐましくも訴えているのだ。
しかし、どんなに地位が高くても、偉そうにする人はけっして偉いとは思われない。陰で笑いものにされるだけである。
慎ましやかに生きていれば、慕われ、尊敬される可能性も高くなるのに、みすみすその機会を手放してしまっているかわいそうな人なのだ。

偉そうにする人も愚かだが、それに対して悔しがる人は、もっと情けない。「自分も偉そうにしたいのに、できない」だけなのだから。同じ穴のむじなである。
「他人と自分とどちらが立場が上か」をいつも気にかけているから、見くだされることが我慢ならないのだ。

大金をギャンブルにつぎ込んで大損している人を見ても、「何と愚かなことを」とは思うだろうが、「悔しい」とは思わないはずである。
他人が勝手に損をしているだけで、自分とは関係のないことである。「自分も負けずに損をするぞ」と張り合う人はいない。

偉そうにする人は、敬愛を受ける権利を放棄している愚かな人である。損をしているのはほかでもない当の本人だ。
他人に偉そうな態度をとられても、自分は何も損をしていないのだから、ほうっておけばいい。
「謙虚なほうが人間として上等だ」ということが分かっていれば、いくら他人に偉そうにされても、自尊心は傷つかないものなのだ。

(文・たかたまさひろ)
このページの上へ