2011年05月31日

いいよいいよ、どうでもいいよ

もし自分の言うことすることを何でも「いいよ、いいよ」と認めてくれる人がいたら、その人は自分を立ててくれているのではなく、むしろ距離を置かれているのだと考えたほうがよい。

人それぞれに性格も価値基準も違うのだから、利害がすべて一致するということはありえない。
自分の利益が他人の損害となったり、自分の好きなものが他人は嫌いであったりする場合も多いのだ。
人付き合いとは、有り体にいえば、互いの利害をすり合わせ、落としどころを探る作業だ。

何でも許してくれる人は、きっと「面倒だから、この人の言うことは適当に聞き流しておこう」と思っているに違いない。本気でつき合う相手ではないと軽んじられているのである。
「いいよいいよは、どうでもいいよ」という言葉がある。
「私のことをすべて認めてほしい」というのは、「私と深く関わらないでほしい」というに等しい。

よい人間関係とは、「対立しない」のではなく、「対立をうまく調整できる」間柄のことだ。

(文・たかたまさひろ)
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2011年05月29日

自分はいいことをしている?

いいことは、もちろんするべきだ。
だが、「私はいいことをしている」と思ってはいけない。

「私はいいことをしている」と信じ込んでいる人ほど始末に負えないものはない。
そういう人は、感謝してもらえなかったり、報われなかったりすれば、今度は他人を恨むようになるのだ。
結局、自分のことしか頭にないのである。

いいか悪いかは、主観にすぎない。
自分は他人のためによかれと思ってやったことでも、相手にとってはありがた迷惑であるかもしれない。
相手は、たとえありがた迷惑と感じていても、ふつうは社交辞令で「ありがとう」の一言ぐらいは言うものだ。礼を言われたからといって真に受けるのは早計だ。
ましてや、感謝してくれないといって憤るのは、独善以外の何ものでもない。

また、相手が本当によろこんでいたとしても、それがかえって害悪となってしまう場合もある。
人をほめれば、ほめられたほうは気分がいいだろうが、ほめられてばかりいると増長しておごり高ぶった人間になってしまうかもしれない。
人の手助けばかりしていると、相手は「誰かが代わりにやってくれる」と思い込んで、自分から動こうとしない怠け者になってしまうかもしれない。

自分はいいことをしているつもりでも、それが本当に「いいこと」だとはかぎらない。
だからといって、何もしなければいいというのでもない。
私たちは、自分が「いいこと」だと信じることをやるしかないのだ。

人のためになることは、するべきだ。
ただし、それが本当に相手のためになったかどうかは、誰にも分からない。
「いいこと」は、他人のためではなく、「自分がいい気分になりたいから」「自分が人に好かれたいから」やっているだけだ、と思いながらやるのがよい。

(文・たかたまさひろ)
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2011年05月26日

メールの返事がこない!

メールの返事がこなくても、気にすることはない。

面と向かって話しかけたのにあからさまに無視をされたのなら、相手は怒っているか、自分をバカにしているのだろう、ということは分かる。それを失礼な態度だと抗議するのはかまわない。
しかし、メールの返事がこない理由は、相手がまだメールを読んでいないのか、何らかの手違いや不具合でメールが届かなかったのか、忙しくて返信をする時間がないのか、返信の内容をじっくり考えているのか、はたまた返信するほどのものでもないと判断しているのか、まったく分からない。

メールでは、相手の事情は分からない。それを承知の上で送らなくてはならない。
重要な用件なら直接会って話すべきだし、急ぐのならせめて電話をかけて話すべきだ。
メール以外に連絡手段がない、相手の居場所も分からない、というのなら、しょせんその程度の浅い関係でしかないのだから、嫌われたのではないかと気に病む必要もない。

メールで心は通じない。
親しい友人や恋人、家族から優しい内容のメールをもらって心が温まるのは、ふだん実際に会って話をし、信頼し合い、尊重し合っているという前提があるからだ。
メールはコミュニケーションの補助的な手段にすぎない。
「メールがこなければ不安になるような関係」ならば、何千何万通のメールで互いの心を探り合っても、信頼や理解は深まらないのだ。

「メールなら素直に何でも話せる」という人がいるが、直接言えないことは、メールでも言うべきではない。
直接言いにくいことは、本当に重要なことである。それならなおさら、メールなどという簡便な手段ではなく、口で言うべきだ。
ケンカをした相手にメールで「ごめん」と送るのは、素直に謝ったことにはならない。
謝罪というのは、相手の目を見て、神妙な面持ちで、頭を下げてするものだ。全身全霊で謝意を表すべきものだ。
メールは、ふんぞり返ったままでも、舌を出してせせら笑いながらでも、送ることができる。そんなもので気持ちは伝わらない。
メールを送っただけで誠意を伝えたことにするのは、横着というものである。

メールは、「特に大事な用ではないけれど、暇があれば読んでください」という程度の軽い気持ちで送るものだ。
いわば、ただの暇つぶしである。
暇つぶしに他人がつき合ってくれないからといって腹を立ててはいけない。相手はそれほど暇ではないのかもしれないのだから。
どうしても返事がほしいのなら、直接話せばいいだけのことだ。

(文・たかたまさひろ)
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2011年05月22日

ストレスは「たまる」ものではない

ストレスを「ためる」のはよくない。
「感じる」だけにしよう。

「たまる」「ためる」と表現してしまうと、いかにも胸の中に澱がよどんでいるようで、重苦しい気分になる。
単に「いま、感じているだけ」とみなせば、ストレスの要因がなくなればストレス自体も消えてなくなるのだ。
流れる水で水車が回っているさまをイメージするとよい。水の流れがとまれば水車も止まる。

ストレスは、嫌なことがあった瞬間だけ「感じる」もの。
そして、水のようにさらさら流れていくもの。
流れ去った後は、もうここにはない。

(文・たかたまさひろ)
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2011年05月17日

他人に振り回される

恋人のわがままに振り回される。
へそ曲がりな友人に振り回される。
横暴な親に振り回される。

一人では生きられない子どもではないかぎり、または暴力で脅されているわけではないかぎり、「他人に振り回される」という言い方は正しくない。
自分が人に好かれたい、頼りたい、嫌われたくない、という我執に振り回されているのだ。

「私を嫌う人は許せない」「他人に見捨てられたら生きていけない」
相手を非難しながら、相手に依存するという相反する欲求。嫌なことを嫌と言えない自分のはがゆさに疲れてしまうのだ。
「他人に振り回されている」というよりも、「他人を自分の理想の型に押し込めようと四苦八苦している」にすぎない。

他人は自分の思いどおりにはならない。
このあまりにも当たり前の事実をわきまえていれば、けっして他人に振り回されるということはない。

(文・たかたまさひろ)
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2011年05月13日

自分の命は誰のもの

自分の命は誰のもの? 自分のもの?
いや、みんなのものだ。
全人類とまではいわずとも、これまで自分がかかわってきたすべての人のものだ。

何もかもが嫌になって、ふと死にたいという思いが頭をよぎったときには、思いだそう。
自分の命は自分だけのものではない。
勝手に粗末に扱うことは許されない。

そう考えることは、自分をおとしめることにはけっしてならない。
むしろ、自分を大切にし、自分の価値を高めることになるんだ。

自分の命が自分だけのものだとしたら、もしそれがなくなっても誰も困らない、ということになってしまう。
それではあまりにも寂しすぎる。
自分が買った本なら、読んだあとは捨てようが人にあげようが自由である。
だが、図書館で借りた本は、おもしろくないからといって勝手に処分してはいけない。みんなの共有財産なのだから、大事に扱わなくてはならない。

「どうせ誰も私のことを分かってくれない。私は独りぼっちだ」
それはまるで自分一人の力で生きてきたような、はなはだ厚かましいもの言いだ。
人は一人では生きられない。
生まれてすぐに無人島に置き去りにされていたら、絶対にいま生きてはいないだろう。
これまで生きてこられたのは、数え切れないほど多くの人が自分を支えてくれ、世話をしてくれたおかげだ。
残りの人生をその恩に報いるためだけに使おうと思っても、とても時間が足りないくらいなんだ。

自分の命は自分だけのものではない。
みんなのもの。大事なもの。多くの人の思いがつまっているもの。
死ぬか生きるかを選ぶ権利なんて自分にはないんだ。

(文・たかたまさひろ)
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2011年05月11日

真の友情、愛情

真の友情とは――。
相手が困っているときに全力で助けることである。
しかし、「俺たち親友なんだから、助けてくれるのが当たり前だろ」と相手に要求することは、友情ではない。

真の愛情とは――。
我が身を捨ててでも相手を守ろうとすることである。
しかし、「私のことを愛しているなら、これぐらいのことやってよ」と相手の愛情を試すことは、愛情ではない。

(文・たかたまさひろ)
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2011年05月05日

不機嫌を受けとらない

いつも不機嫌な人というのがいる。
そういう人は、自分だけが不機嫌であるのが悔しいので、まわりにも不機嫌をまき散らして、他人も巻きぞえにしようとする。
わざと他人を怒らせたり、悲しませたりして、「不機嫌なのは自分だけではない。他人の心だって汚れているじゃないか」ということを確認して、内心ほくそ笑んでいるのだ。

「不幸のおすそ分け」をわざわざご親切に受けとってやる必要はない。
不機嫌な人から嫌なことを言われたり、されたりしたときは、心の中でこう宣言しよう。
「私は、あなたの不機嫌を絶対に受けとりません」

不機嫌な人は、他人が幸せそうにしているのが我慢ならない。だから、何とかして自分と同じ位置にまで引きずり下ろそうとする。
挑発に乗って腹を立てては、それこそ相手の思うつぼだ。

不機嫌をまき散らす人には、あくまで紳士的に、冷静に対応すべきだ。まともに相手にされないことが、もっとも相手が嫌がる反応である。
「私を怒らそうったって、その手にはのりませんよ。イライラしたいなら、一人で勝手にどうぞ」と、素知らぬ顔をしていればいい。

贈り物を受けとらなければ、それは相手のものとなる。
不幸のおすそ分けは、突き返してやればいい。相手がますます自分を嫌いになるだけだ。
「あなたの不機嫌は、あなたのもの。私には関係ありません」という態度が、この上なく効果的な復讐なのだ。

(文・たかたまさひろ)
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