2011年04月30日

つらい経験は心の糧

誰でも、つらい目にあうよりは、毎日を楽しく過ごしたいと思う。
苦労をするよりは、安楽に生きたいと思う。
しかし、後になってしみじみと振り返るのは、心の宝物となるのは、楽しいことよりも、つらく苦しい経験のほうだ。

うれしいこと、楽しいことは、今この瞬間だけのものだ。
後になって「あのころは幸せだったなあ」と振り返ってみても、今が幸せでなければ、かえってむなしいだけである。

つらく苦しい時期を乗り切った経験は、のちのちの自信のみなもととなる。明日を生きる気力となる。
「あんなにつらい思いに耐えたのだから、私も捨てたもんじゃない」
苦難の日々はいつかきっと、大きな心の支えとなるに違いない。

(文・たかたまさひろ)
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2011年04月25日

マッチ売りの少女

マッチ売りの少女は、小さな炎の中に美しい夢を見て、口元に笑みを浮かべながらあの世に旅立った。

マッチをすったからといって、現実が変わったわけではない。
しかし、少女が「ああ、何もいいことなんかなかった」というむなしい絶望だけを抱いて死んでいたら、それこそ救いようのないみじめな人生だっただろう。

マッチ売りの少女は、どんなにつらい目にあっても、最期まで自分を見捨てなかった。夢を見ることで現実に敢然と立ち向かった。
道行く人々は少女を憐れみの目で見ていたが、少女はそんな視線をものともせず、「私が幸せかどうかは、私が決める」という信念をつらぬいた。

生活に不自由はなくても夢も希望もない人生を送っている人と、不自由な中でも明るい夢を見ていたマッチ売りの少女とでは、はたしてどちらが幸せといえるだろうか。

(文・たかたまさひろ)
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2011年04月21日

一期一会

嫌いな人とは、なるべく会いたくない。
しかし、同僚、親戚、隣近所など、どうしても顔を合わせずにはすませられない人もいる。
なるべくストレスをためずにつき合う方法を考えてみた。

嫌いな人に会わなければならないときは、そのたびごとに「最初で最後の出会い」のつもりで接すればよい。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と言われるとおり、一度人を嫌いになると、その人のやることなすこと何もかもが憎たらしく感じる。
人間、誰でも見習うべき点の一つはあるものだが、「嫌なやつ」というフィルターを通すと、せっかくの長所も見えなくなってしまう。

そこで、毎回はじめて会うつもりで、「この人は、どんな人だろう」とわくわくしながら会ってみる。
「意外にいい人だな」という新しい発見があるかもしれない。「やっぱり嫌なやつだった」となってしまう可能性もなくはないが。

腹が立ったときは、「この人がもし明日死ぬとしたら」と仮定してみよう。
どんなに嫌いな相手でも、「死ぬと分かっていたら、もっと優しくしてあげればよかった」と後になって思うことだろう。たいていの嫌なことは忘れられるものだ。

これは、嫌いな人にかぎらず、すべての人との付き合いにおいて心がけておくとよい。
一期一会。二度とやってこない、この貴重な巡り合わせを大切にしたい。
誰に対しても、一度きりの出会いのつもりで接すれば、心に灯がともるような愛しさを感じられるだろう。

(文・たかたまさひろ)
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2011年04月15日

多少の不利益は気にしない

他人の悪意や不注意によって自分が何らかの不利益をこうむったなら、泣き寝入りすることなく、正当な抗議を行うのはかまわない。
しかし、「どんなわずかな損害も見逃さないぞ」と過敏に警戒するのは、それ自体が大きな損害である。

まったくリスクのない世界、完全に平等な社会というのは存在しない。
多くの人は、多少の不利益には目をつぶって気楽に生きているのだ。
自分だけが割を食っていると思うのは、とんだ思い上がりだ。

「損をすることは絶対に許せない」とつねに神経を尖らせ、他人の非を責め、責任を追及していたら、人生を楽しむ暇がない。
損害を防ぐことも大事だが、そのために損害を上回るコストがかかったのでは元も子もない。千円の商品を購入するのに、どの店が安いかを二千円の交通費をかけて調べ回るようなものである。
多少の不利益を気にかけるよりも、人生を楽しむためにエネルギーを使ったほうが得策だ。最終的に収支がプラスになれば、それでよいのだ。

(文・たかたまさひろ)
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2011年04月10日

自分が気づいていないこと

気が利かない鈍感な人に対して、イライラさせられることがある。
他人の都合を考えない人。平気で他人の邪魔をする人。時間にルーズな人。いつも一言多い人。逆に言葉が足りない人。

こちらが不愉快な思いをしていることに相手は気づいていない。
悪気がないのは分かっているので、わざわざ文句を言うほどでもないが、「ちょっと気を遣ってくれれば、互いに気持ちよくすごせるのに。なぜそれくらいのことが分からないのだろう」と、一人はがゆさを噛みしめる。

だが、ふと考えてみるに、「気づいていないこと」は自分にも山ほどあるのではないか。無意識のうちに他人をわずらわせて、他人から同じように思われているのではないか。
どうして「私は知らぬ間に他人に迷惑をかけたことはない」などと言いきれるだろう。知らぬ間のできごとを自覚できるわけもない。

他人の無神経さにいら立ちを感じるのと同じ数だけ、自分も他人を不快にしているかもしれない。それを大目にみてもらっているから、安閑としていられるのだ。
自分も他人に許され、気を遣わせている。そう思ったほうがいい。

(文・たかたまさひろ)
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2011年04月08日

自分がどういう人生を送るのか

人は、何のために生きるのか。
大昔から多くの人々が考えあぐねているのに、いまだに答えの見つからない大問題である。
明確な答えは永久に出せないのだろう。

生きる目的――とりあえず、「自分がどういう人生を送るのかを見届けるため」でいいのではないだろうか。
この先、何が起こるか分からない。
将来、自分を取り巻く状況ががらりと変わるかもしれない。
環境が何も変わらなくても、新しい人に出会ったり、本を読んだりして、今まで見えていなかったものが見えるようになるかもしれない。
それを楽しみに生きていけばいい。

(文・たかたまさひろ)
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2011年04月02日

同情は慎重に

「安心して病気がしたい」
ある本で読んだ、がん患者たちの切実な声である。

「お気の毒に」「どうか気を落とさずに」「がんばって」
本人は病気を受け入れ、しっかり前を向いて生きようとしているのに、他人からは「かわいそうな人」と憐れみを受ける。
まわりは励ますつもりで言っているのだろうが、言われたほうは、弱者として見下されるのが我慢ならないそうだ。

「かわいそう」という言葉は、相手を侮辱したと受けとられる危険をはらんでいる。
「くじけないで」という言葉は、「あなたは、すぐにくじける弱い人間だから」と決めつけているようにも受け取れる。
「がんばって」は、「まだまだ努力が足りない」とも。
他人の気持ちをくみ取り、痛みに共感することは大切だが、同情はときに人を傷つけることもあるということは心得ておく必要がある。

心からの同情を示したつもりでも、実際は相手の気持ちの百分の一も分かっていないに違いない。
他人と人生を変わってあげることはできないのだから、せんじつめれば、相手と同じ目に遭わないかぎり、本当の気持ちなんか分かりはしないのだ。

上っ面ばかりの同情を示されても、「あなたに私の気持ちが分かってたまるか」と反感を覚える人もいるだろう。
下手に励ましたり、憐れんだりせず、「私はあなたを気にかけていますよ。困ったことがあったら、いつでも声をかけてください」と、さりげなく見守る態度をとるのがよい。

(文・たかたまさひろ)
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