2011年01月31日

楽天的とは、強い意志をもつこと

新聞にひき逃げ事件の記事が載っていた。
犯人の供述「酒を飲んでいたので、怖くなって逃げた」
なぜ、事故を起こしてはじめて「怖くなる」のだろう。
酔っ払い運転をしている時点で怖いと思うべきなのに。

ニュース番組の中での、万引きの実態を取材した特集。
スーパーの商品を盗んで保安員に捕まった男は、「会社や家族には言わないでください。お願いします」と土下座して泣きついた。
そりゃ、職場や家族に知られれば、まずいことになるだろう。そんなことは、盗む前から分かっていたはずだ。
だから、ふつうの人は泥棒なんかやらないのだ。

彼らは、悪い意味での楽天家だ。
自分に都合の悪いことは起こらないと思い込んでいる。
ひき逃げ事件を起こすような人も、まさかはじめから「人をはねても、逃げればいい」と考えているような極悪人はほとんどいないだろう。自分が事故を起こすことなど想像もしていないから、起こしてはじめて、「どうしよう、どうしよう」とパニックに陥り、冷静な判断力を失ってしまうのだ。

楽天的に考えることは、たしかに大切である。
不幸になることを怖れてつねにびくびくしている人は、悲観的であること自体がすでに不幸である。
楽天家であるほうが、明るく楽しい人生を送ることができる。
ただし、「楽天的」とは、頭を空っぽにすることではない。
後先考えずに行動し、「こんなことになるとは思わなかった」というのは、ただ愚かで無責任なだけだ。

楽天家とは、最悪の事態も想定した上で、「悪いことはめったに起こらないだろうが、もし起こっても、どうにかなるさ」という積極的で強い意志をもった人のことだ。
現実から逃げるのではなく、現実としっかり向き合い、すべてを受け入れる姿勢のことを「楽天的」という。

(文・たかたまさひろ)
このページの上へ
2011年01月27日

愛されない苦しみ

「なぜあの人は、私を愛してくれないのか」という怒りや悲しみに心をかきむしられたなら――。
認めたくないこの事実を認めざるをえない。
「私が相手を愛していないのと同じではないか」と。

せっかく自分が愛してあげたのに。相手も自分を愛してくれなければ損だ。自分だけがバカをみるのは嫌だ。
自分の愛情も、その程度の生半可なものでしかなかったということだ。
他人の愛情を測ることによって、自分の愛情が試されている。

「私は、ひたむきに人を愛する純粋な人間。相手は、その愛情に応えてくれない冷たい人」
自分だけいいカッコして、他人を悪者扱いしている。これではあまりにも虫がよすぎる。

「私への愛が足りない」と他人を責めるのなら、自身は愛情あふれる人間でなければならない。
愛情あふれる人間は、それで心は満たされているので、他人の愛情にケチをつけるようなさもしい真似はしない。
つまるところ、「なぜ私を愛してくれないのか」という批判は、自己矛盾を抱えていることになる。

「相手は自分をどう思っているのか」と気にする前に、「自分が相手をどう思っているか」を問い直したほうがいい。
自分を愛してくれない相手に怒りを感じるなら、自分も相手を真剣に愛してなどいない。
ただ「自分が愛されたい」だけなのだ。

(文・たかたまさひろ)
このページの上へ
2011年01月23日

選択をしない代償

重大な岐路に立たされ、右か左かの選択を迫られることがある。
選択の結果が失敗に終わったときは、当然、悔しい。
選択を避けて何もしなければ、大きな痛手は被らずにすむが、今度は「むなしさ」という代償を払わされることになる。

「悔しさ」には、まだしも手応えがある。「悔しさ」をバネにして奮闘する気にもなる。
「むなしさ」は、何ともやりきれない。

「むなしい」よりは、「悔しい」ほうがいい。
いいことも悪いこともない、砂をかむような「むなしい」人生は、まっぴらごめんだ。
「悔しさ」を抱えながらも、自分の足で歩いていこう。

(文・たかたまさひろ)
このページの上へ
2011年01月21日

あいさつを無視する人

近所や職場、どこにでも、なぜだか絶対にあいさつを返してくれない人というのがいる。
まるで、あいさつをしたら負けだと思っているかのようだ。

そういう相手に対しては、ゲームを楽しむつもりで接すればよい。
「あいさつをした方が負け」というのは、相手が勝手につくったルール。
こちらはこちらで、独自のルールを決めよう。

知っている人に会ったら、先に大きな声であいさつをしたほうが勝ち。
心の中で「よし、勝ったぞ」と叫び、小さくガッツポーズをする。

さて、きょうはゲームで何回勝てるかな。

(文・たかたまさひろ)
このページの上へ
2011年01月15日

夢を断念する勇気

「あきらめなければ、夢はかなう」とよく言われる。
そういう言葉を発するのは、まず間違いなく、実際に成功をおさめた人たちである。自分が成功したからそう言えるわけだ。
だが、現実は過酷で、努力しさえすれば必ず成功するわけではない。
むしろ、夢をかなえられずに断念せざるをえない人のほうが、圧倒的に多いのである。
誰もが人気企業の社長やプロスポーツ選手や弁護士になれるわけではない。
その陰には、数え切れないほどの「夢をかなえられなかった人たち」がいる。彼らの嘆きの声は、世間に届けられる機会さえないのだ。

「夢をもて、あきらめるな」という理念自体はすばらしい。目標に向かってたゆまず努力することは、もちろん大切である。
しかしながら、これには但し書きが必要だ。
夢をもつと同時に、かなわなかったときに断念する勇気も併せもつ必要がある。
理想にしばられた自己愛イメージだけがふくらんで、ありのままの自分を受け入れられないのでは、幼稚な子どもと言われても仕方がない。

勉強ができる自分。勝ち組の仲間入りをしている自分。異性からちやほやされている自分。
その夢が壁にぶち当たり、理想の自分を維持できなくなったとき、「あきらめきれない」人たちが、うつ、ひきこもり、ストーカー、アルコール依存、最悪の場合には犯罪者になってしまう。
「夢をあきらめない」というのは、けっして現実の自分から目をそらし、妄想の中で生きるということではない。

若いころには、絵空事とも思えるような壮大な夢をもつのもよい。ぜひとも、もつべきである。
「こういう人間になりたい」という目的意識が、自らを発奮させる大きな原動力となる。そして実際に、ごく一部の人は、夢をかなえられることもある。
だが、よほどの幸運か天分に恵まれないかぎり、いずれ「それほどでもない自分」を思い知り、目標を下方修正するかどうかの決断を迫られることになる。その後が重要である。
自分の身のほどを知るというのは、大人になるための絶対条件だ。

挫折した人生が不幸なのかというと、けっしてそんなことはない。
人は、どん底にまで落ちて、せっぱつまった状況に追い込まれないと、なかなか自分の生き方を変えようとしないものだ。
挫折してはじめて、本当の幸せとは何かを考えるきっかけがつかめるかもしれない。

失敗をどう受け止めるかで、その人の人格が問われるといってもよい。
悩み苦しんだ経験があるほうが、人間として深みがでるというものだ。傷ついた者だけが、他人の痛みにも共感できる。その経験はいつかきっと役に立つときがくるだろう。
挫折が人間としての成長を促すこともある。成功だけが幸福ではない。

もちろん、いくつになっても夢をもち続けるのはよい。しかし、夢を現実逃避の道具に使ってはならない。
夢を見るなら、「たとえかなわなくても、後悔しない」という悲壮なまでの覚悟がいる。
「それほどでもない自分」を受け入れつつ、少しでも成長できるよう、地に足のついた努力をし続けるというのが、「夢をあきらめるな」という言葉の本当の意味である。

(文・たかたまさひろ)
このページの上へ
2011年01月11日

不公平な世の中

「世の中、不公平だ」と嘆いてもはじまらない。
人は、生まれる国も、家も、容姿も、才能も、それぞれ違う。自分の境遇を選んで生まれてくることはできない。
相違を不公平だというなら、不公平は人間が生まれもった宿命だ。

ある点において恵まれている人も、ほかの点では劣っているものだ。
多くの人に愛されているスターも、たった一人の愛をえられずに精神を病んでしまうことがある。
高級住宅地に住んでいる富豪も、家庭は冷え切っているということもある。

人はえてして、自分にないものを欲しがる。自分がいかに恵まれているかを知らずに。
不公平をただすべきだというなら、自分がすでに得ている利益も放棄しなければならない。
親のある人は、親を早くに亡くして苦労した人との不公平をただすために、自分も親との縁を切らなければならない。
仕事のある人は、病気やケガで失職した人のために、仕事を辞めなければならない。
日本という豊かな国に生まれたすべての人は、貧しい国のスラム街で暮らす人のことを思って、家を捨てなければならない。

人間は、不公平にできている。不公平だが、それはただ「人それぞれ、何において恵まれているかが違う」というだけの話だ。
誰だって、必ず優れている点があるものだ。

人はみな違うから、世の中はおもしろい。すべての人が公平で横並びだったら、努力も希望も思いやりも意味がなくなってしまう。
不公平を嘆きながら生きるなんて、つまらない。
相違を受け入れて、自分にできるかぎりのことを精一杯やればいいじゃないか。

(文・たかたまさひろ)
このページの上へ
2011年01月07日

劣等感を言い訳にするな

人それぞれ、大なり小なり劣等感を抱えている。
見た目が不細工だから、恋愛ができない。
学歴が低いから、仕事で認められない。
親友や恋人に裏切られて、人間不信になってしまった。

その劣等感が自分を苦しめていると思い込んでいる。
しかし、悩みの種が取り払われさえすれば、明るく楽しく生きられるのだろうか。
そう考えると、自分を苦しめているはずの悩みが、多くの場合、自分をごまかすための言い訳に使われていることに気づく。

自分は見た目が美しくないから、異性にもてない。
一度そう思い込むと、もてない原因をすべてその点に帰着させてしまう。
本当は、見た目のせいではなく、性格的に問題があるからなのかもしれない。
「性格が嫌われている」と思うよりも、「外見のせいで好かれない」と思うほうがましである。「人を見た目で判断するのが悪い」と、間接的に他人のせいにできるのだから。

自分は学歴が低いから、重要な仕事をまかせてもらえない。
いや、実は、学歴のせいではなく、仕事がいい加減で、勤務態度も不真面目だから、認めてもらえないのかもしれない。
「仕事を楽しめないのは、学歴が低いからだ」と思っておけば、気が楽である。「学歴のせいで、自分は正当に評価してもらえないだけだ」と開き直っていればいいのだから。

美形に生まれてさえいれば。希望の大学に受かってさえいれば。上司に恵まれていれば。同級生にいじめられなければ。裕福な家庭に生まれていれば……。もっと充実した人生を歩んでいたはずなのに。いまの自分は本当の自分ではないのだ。
自分を卑下しているつもりが、実は無意識のうちに、それを言い訳にして、もっと深刻な問題を覆いかくしている。
劣等感に苦しめられているようでいて、自らそれに執着し、安住してしまっている。
都合が悪いことはみんなその「いかんともしがたい理由」のせいにして、自分と向き合うことを避けているのだ。

劣等感に苦しめられているとき、勇気を出して自分にこう問いかけてみよう。
その悩みの種がなくなれば、人生はすべてうまくいくとでもいうのか。
「自分には特別な事情があるのだから、仕方がない」という言い訳を盾にして、自分の心を防御してはいないだろうか。
ひょっとしたら、たまねぎの皮を次々にはがしていけば、中身はからっぽなのではないだろうか。

「うまくいかない人生」の言い訳を取りつくろっても、累積赤字はふくらむ一方だ。
どんなつらい目にあっても、それをバネにして苦難を乗り越え、かえって大きな花を咲かせている人もいる。
自分に自信がもてない原因、人生を楽しめない原因は、自分の心の持ち方そのものにあるのかもしれない。
無意識に避けてきた「本当の原因」と向き合わないかぎり、問題は何も解決しないのだ。

(文・たかたまさひろ)
このページの上へ
2011年01月02日

誰にも必要とされていない?

私は、世の中の誰からも必要とされていないのだろうか。
自分だけが取り残されているような焦りを感じることがある。

人の役に立ちたいと思う気持ちは大切である。
だが、その裏には、「人に感謝されたい」という欲求がある。
人から認められたい。人に頭を下げてもらいたい。要するに、他人よりも優位に立ちたいのだ。

私は、世の中の誰からも必要とされていないのだろうか。
そう思ったときは、自分を立ててもらおうとするより、まず他人を立ててみればよい。
他人も同じように、感謝されたいと願っている。感謝してくれる人を必要としている。

人は一人では生きていけないのだから、必ず誰かの世話になっているはずだ。
自分が何もできないなら、せめて、自分のために何かをしてくれる人に対して、心からの感謝を示そう。
それだけで十分、人の役に立っているといえる。人から必要とされる人間になれる。
他人を立てれば、相手も自分を尊重してくれるだろう。

(文・たかたまさひろ)
このページの上へ