2010年11月28日

愛を求めても

他人に愛情や優しさを強要する人は、自分自身が優しくないんだ。

本当の愛情を知っている人は、他人にそれを求めたりはしない。
愛情は、他人から強制されることによってはけっして生まれないことが分かっているからだ。
自発的な愛情だけが、本物の愛情だ。

愛情や優しさは、いくら他人に無理強いしても、えられるものではない。
幸運にも誰かが愛情を注いでくれたら、ありがたく受けとるだけでいい。そうすることしかできないんだ。

(文・たかたまさひろ)
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2010年11月23日

痛い注射

注射が苦手な人というのがいる。
子どもじゃあるまいし、大の大人が、あんな細い針を刺されたぐらいでなぜそんなに痛がるのかと首をかしげていたが、聞くところによると、そういう人たちは、大げさでも何でもなく、実際に耐え難いほどの激痛を感じているのだそうだ。

たまたま腕の悪い医療者に注射をされて、強い痛みを経験すると、再び注射をされるとき、「どうせまた痛いんだろうな」という恐怖心が起こる。
「痛い、痛い」と思い込むから、本当に痛みが増すのだという。

「痛くない」と思えば、痛みは軽くなる。
これは、西宮協立脳神経外科病院の小山哲男医師と米ウエークフォレスト大のロバート・コグヒル助教授の研究で科学的に証明されている。
母親が幼い子どもに注射を打たせるとき、「痛くないよ、痛くないよ」というのは、理にかなっているのだ。

「痛いに決まっている」という予期不安が、本当に痛みを強めてしまう。
心の痛みも同じかもしれない。覚えておこう。

―― 蛇足だが、「筋肉注射」というのは、聞くからに痛そうだ。
あれは呼び方を変えたほうがよいと思う。

(文・たかたまさひろ)
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2010年11月19日

被害者意識は禁物

「職場に嫌なやつがいるせいで、私は仕事が楽しく感じられないのだ」
「恋人にひどい裏切られ方をして、人間不信になってしまった」
「親に愛されなかったから、私は自分に自信がもてないのだ」

――被害者意識は、自分を傷つけ、ますます不幸にする。
被害者意識をもってはいけない。
たとえ本当に被害にあったとしても(それも主観にすぎないが)、被害者意識は捨てるべきだ。
誰にも迷惑をかけていなくても、自分に悪いことをしている。

被害者意識をもつと、他人の嫌なところばかりが見える。
友好的な微笑みも、あざ笑われているかのように思える。
親切な助言も、自分を否定されているように聞こえる。
ますます他人が信用できなくなり、自分も他人を否定するようになる。

世の中全体の「被害意識」と「加害意識」とを較べれば、「被害意識」が9割、「加害意識」が1割ほどだろう。
人はみな、自分こそが被害者だと思っている。
悪いのは他人だ、自分は善良な被害者だ、と思っていれば、一応は楽である。自分は何も努力しなくてよいのだから。

しかし、被害者意識からは何も生まれない。自分を不幸にするだけだ。
自分を傷つけた相手だって、自身を被害者だと思っている。
どちらの被害が大きいかを較べ合う競争に勝ったとして、いったい何が残るだろう。まったく不毛だ。
相手と同じ土俵で戦うなら、しょせんはどっちもどっちだ。

被害較べ競争から「一抜けた」をして、「自分が幸せになるためには、何をすればよいか」を考えたほうの勝ちだ。
誰が悪いのかは問題ではない。自分が幸せになりたいかどうかが重要なのだ。

(文・たかたまさひろ)
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2010年11月14日

失敗は成功のもと

ポスト・イットは、接着剤の失敗作から生まれたそうだ。
たまたま、くっつかない接着剤ができてしまい、それをある人が付箋に使えるとひらめいた。

失敗が大きな成功を生むことがある。
欠点が大きな長所に変わることもある。
みんな、何かの役に立てる。

(文・たかたまさひろ)
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2010年11月11日

こんなはずじゃなかった人生

歳を重ねた大人なら誰でも、多かれ少なかれ「自分の人生、こんなはずじゃなかった」というもどかしさを胸の奥に抱えている。
何もかも思い通りになっている人はいない。

それはけっして、悲嘆すべきことではない。
みな、いつも「少し上」を目指しているから。
希望をもって生きてきた証しなんだ。

足りないくらいがちょうどいい。
いっさいの願いがかなってしまったら、残りの人生、やることがなくなってしまうじゃないか。

「10年後、こうありたい」という望みも、おそらくすべてはかなえられないだろう。
だからといって、将来をはかなむことはない。
はじめから投げだしてしまったら、それ以下の結果となるだろう。

いま、希望をもつことは大切だ。
少し上を目指して。
希望があるから生きていけるんだ。

(文・たかたまさひろ)
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2010年11月08日

自分を許せば、他人も許せる

他人に厳しく、批判的な人がいる。
他人のちょっとした欠点や失敗が許せないのだ。

他人を厳しく批判するなら、自分は絶対に同じ過ちを犯せないという覚悟が必要である。
他人に厳しい人は、自分は完璧な人間だという自負があるのだろう。
しかし、他人に不寛容であるというのは、人間としての大きな欠点だ。それを批判されたら、何と答えるのだろう。

自分に厳しいこと自体は、悪いことではない。
それが自己肯定にもとづいているならば、自分を成長させる大きな力となる。
しかし、他人にも厳しい人は、心の底では自分に自信がもてず、他人からバカにされることを怖れている。

他人の中に自分と同じみにくさを見いだすから、腹が立つのだ。
「私はこんなにビクビク怯えながら生きているのに、なぜお前は、人に迷惑をかけても平気でいられるのか」と。

自分が許せないから、他人を許せない。
いつも他人を批判している人は、本当は自分にいら立っているのだ。

そんな自分を許してやろう。
ガチガチに固めたよろいから解放してやろう。
それはけっして「甘え」ではない。他人を批判することで自分の心と向き合うことを避け、自分をごまかしながら生きることこそが甘えなのだ。

自分を許せば、他人も許せる。
人は誰でも、他人に迷惑をかけながら生きている。
人と関わり合うことは、たがいに迷惑をかけ合うことだ。
命にかかわることでなければ、迷惑をかけても、かけられてもいいじゃないか。
「私に迷惑をかけるな」と拒絶し合うより、迷惑をかけ合っても、許容し合い、尊重し合うほうがすばらしい。

(文・たかたまさひろ)
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2010年11月02日

一ヶ月後も覚えているか

嫌なことがあって腹が立ったり、落ち込んだりしたときは、こう考えてみよう。
「一ヶ月後も、このくさくさした気分を引きずっているだろうか」

日ごろ感じる「嫌なこと」の九割以上は、気にしなければ何ということはない、どうでもいいことだ。命にかかわるわけでも、財産を失うわけでもない。おそらく一ヶ月もたてばけろりと忘れているだろう。
一ヶ月後に忘れているならば、いま忘れても同じこと。それまでの間、嫌な思いをするだけ損というものだ。
さっさと忘れてしまうにかぎる。

(文・たかたまさひろ)
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